「陸奥守が……、仙台の屋敷が騒がしいと――」
「上様が讃岐守を遣わしになったと――」
「部屋の屋根に不如帰が止まったと――」
「ついに亡くなられたのか!」
漏れ聞こえてくる声は彼の耳を苛んだ。近くにいる他の付喪神たちも息をひそめるようにして、なにとない風を装って彼を気遣っているのが伝わってくる。
亡くなったのは夜明け直前で、今は夜が明けしばらくたった頃。人の時間の感覚は彼のもつものとは異なるが、白々と明るいあたりに比べて人が舌へ乗せる報は暗く沈んでいるのは彼にもわかった。
「ご葬儀は御国で?」
「夕刻には発たれるとか」
「御家中は髪を下ろした、と――」
実体のない彼は、じりじりした気持でそれらの言葉をひとつひとつ拾い集めた。付喪神の一人がやさしく彼に触れる気配がした。
――お前はもはやこの家の者だが、あえて言おう。お悔やみ申し上げる。
将軍家を二つ渡り来たそれはそういうと、すっと彼から離れて行った。ありがたい気遣いだ、と素直に思う。
夜明けごろ、“彼”に名をくれた男が死んだという。
もはや“彼”はその男のものではなかったが、やはり名をくれた者は格別なのだ。何年も前にすっかりと別れたはずなのに、人にすれば惜別の念がこみ上げてきて、人には視えぬ姿の首が下を向き体が丸くなる。
しばらくして、彼ら付喪神のいる蔵の開く気配がした。見れば、彼らの世話人が一人入ってくる。
世話人はまっすぐに迷うことなく――“彼”を目指し、その前に立った。そして恭しく彼を――正確には“彼”の本体を取り上げると、規則正しく踵を返し、蔵を出て行った。
靴脱ぎから廊下へあがり、世話人は屋敷の奥へ奥へと進んでいく。そしてたどり着いたのは、この屋敷の主の居室の前。
世話人は廊下で控えの姿勢を取ると、中へ声をかけた。襖が開いて、世話人は“彼”を中から出てきたものへ手渡した。
それから“彼”は次々運ばれて、いよいよ部屋の奥へとたどり着く。
そこにはひとり、男がいた。男は恭しく差し出された“彼”をひとつ見下ろすと、力強くそれを手に取った。
そして、いつもならそのまま腰に差すはずが、男は一度目線へ“彼”を持ち上げる。
男は、“彼”の今の主であった。
「今日はお前が相応しかろう、なあ、燭台切光忠」
新たなる主は“彼”の名を呼ぶと、そっと柄を優しく叩いてから腰へと差した。
彼は思わず――実態がないというのに――目を見開いた。そのようなことを言われ、またそう思って腰へ下げてくれるなど――彼は思いもしなかったのだ。
「陸奥守にお前を強請(ねだ)った時のことはよく覚えている」
それから男は伴を部屋に置いて歩き出した。男は廊下を行かずに庭へ下り、ずんずん歩いて庭を東へ進む。
やがて男は庭の一角で立ち止まった。そして男は真白な塀を示した。
「こちらが奥州の街道の方向だ。御遺骸は未だ桜田の屋敷にあるそうだが、魂魄は一足早く街道をお進みかもしれん」
言って男は腰に差した“彼”をふたたび優しく叩いた。
「物にも魂が宿るというのなら――御挨拶せよ、燭台切」
言われて、刀に宿る付喪神は東を見やった。付喪の目で塀を透かし街を透かし、街道へ目をやってみても――彼の旧主はどこにも見当たらなかった。
街道の上へ目と耳を伸ばし、桜田の屋敷を探ってみれば、不如帰の声とすすり泣く懐かしい人々の気配がするだけだった。
「この世に客に来たと思えば何の苦もなし、か……」
常々彼の旧主は「この世へは客に来た」と言っていた。ならば彼は意気揚々とすでに、故国のある東ではなく浄土のある西へ向かったのだろう。
「挨拶、か」
それは別れのものが相応しいだろうか、と彼は考えて、首を振る。
戦の世を駆け抜けて、太平に礎を築いた男に「惜しい」とはいえても「さらば」というのは少しばかり違う気がした。
男は、西にたどり着いてもきっとかつての臣下たちを引き連れて大暴れするに違いない。まぶたに浮かぶその姿に「さらば」というのはやはり違う、と彼は思う。
そして生きとし生けるもの間では、時に荒々しく、時に愉快で、時に愛嬌のある人物としていつまでもいつまでも記憶されるだろうことが彼にはわかっていた。
それはやはり、別れであって別れでないものに違いない。
彼はそれを思い、わずかに笑み、そしてそれをおさめると、人には視えぬ姿ではあるが、目を伏せた。そして選んだ挨拶を乗せて、西へ声を放つ。
「それならば、今は少しばかり、ごゆっくりとおやすみを、と――」

この日、普段と変わらぬように見えて、まったく異なるその大名の行列が領国を目指して日本橋にさしかかると、橋はまるで惜しむように震えたという。
その大名の名は伊達政宗。戦国の世には奥州の異端児と呼ばれた竜は、太平の世においては62万石を治める大名となっていた。彼は町を作り国を築きあげ、そしてその日の夜明けにこの世を去ったのだ。
寛永13年5月24日。

その彼が名を与えた刀の一振に、燭台切というものがあった。
この日長船派の光忠の手になる燭台切は、政宗の手をとうに離れ、新しい主とともにいたのである。


(了)

[初出]2015年7月18日(http://privatter.net/p/913096)twitter #元主と刀版深夜のお絵かき小説一本勝負 お題「ゆっくり、おやすみ」
[加筆修正・再掲載]2015年10月17日