ある日のこと。
風呂から上がった五虎退は、食堂を抜け厨房へ向かう。
厨房はまだ明かりがついていて、アイランド型の作業台の前には目当ての人物がいた。
「燭台切さん」
ぱっと顔を上げた男が優しく微笑む。明日の朝はこの男の当番なのだ。料理上手の燭台切さんの朝ごはんは楽しみだなぁと思いつつ、口へ乗せたのは別なこと。
「あの、お風呂みんな終わりました」
「そっか。ありがとう。わざわざそれを知らせに?」
「はい。ええと、それから――少なくなったお湯、少しだけ足して追い炊きのスイッチ押しました。もうちょっとしたら、あったかいと思います」
五虎退がそぉっとそう言うと、男はますます笑った。
「そっか、ありがとう。五虎退はよく気がつくなぁ」
兄とは違う優しさを持つ男に対面すると、五虎退はいつもなんだか照れてしまう。案の定手が伸びてきて、柔らかい髪を優しくなでてくれた。
「もう少ししたら、ほんとのほんとにちょうど良くなると思います」
五虎退がそう言うと、ありがとうと男はまた言って、ポンとひとつ優しく頭をたたいた。その手が離れると、五虎退はぺこりと頭を下げてその場を離れる。
入口でそっと振り返ると、男は作業台の上にあったレシピ用のタブレットを終了させているところだった。
その鋭い横顔にふと、あんな風になれたらなぁ、と思う五虎退だった。

同じ晩のこと。
蛍丸は主の私室へ向かっていた。
近侍の詰める次の間はこの時間はもぬけの殻だ。長谷部など遠慮深すぎてそこから先へ進めないこともあるが、蛍丸にとってはなんでもない。
次の間を数歩で飛ぶように進んでしまうと、目の前にあるのは主の私室の襖だ。トントン、と叩くと女の声がした。
「はあい」
スラリと襖を引いて、ひょいと蛍丸は私室へ入る。これも長谷部あたりが見たら血相を変えそうだが、「ノック」さえできればそもそも主はそんなことは気にしないのだ。もちろん、近侍も。
「主、ボディソープなくなりそうかも」
「あれ、棚になかった?」
「探したけどなかった。あと、頭拭く用のタオルも売り切れ」
「あー」
電子端末から顔を上げた主は、ふうと息をついた。そして蛍丸へ向き直る。
「昼間ほとんど洗っちゃったからなぁ。みんな入ったの?」
「あとは主と燭台切だけ。……また最後に入るの?」
「長湯したいからねぇ」
主だというのに、このヒトはいつも風呂が最後なのだ。主であれば一番風呂なのに、とさすがに蛍丸でも思う。
いつも今書いているものがキリよくなるまで、とか、皆早く寝たいでしょ? とか、理由をつけて最後に入るのだ。
ピ、と電子端末の電源を落としつつ主は言う。
「ボディーソープ……買い置きしてたはず。それとタオルね。わかった、持ってくわ」
「持ってってもらっちゃってもいいの? 場所教えてもらえれば、俺がやっとくよ?」
「蛍丸今日遠征がえりで疲れてるでしょ? 大丈夫、これくらいなんでもないわ」
「そう? ならお願いしちゃう」
主は立ち上がって、ぽんぽん、と優しく蛍丸の頭をなでた。大太刀とはいえ少年の身に顕現した彼にとってその手は常に心地いい。ただときどき、縮むのではないかとばかりにわっしゃわっしゃと撫でられるのは不安になるが。
そんなわけで、蛍丸は主と一緒に部屋を出て、廊下で別れた。


ざっとシャワーを浴びて髪を洗い、顔を洗い、ボディーソープのポンプに手をかけて、それが心もとない量しか出なかったことに燭台切は顔をしかめた。思わずくるりとポンプをはずしてボトルをひっくり返せば、ひとりぶんは何とかなりそうだった。
昼にかいた汗をそれでもって落とすと、燭台切はため息をついた。
――湯船に浸かると忘れそうだから、先に補充しとこうかな。
後にこの判断が大きな間違いであったと彼は頭を抱えることになるのだが、ともかく、その時は一度浴室を出てしまったのだ。
カラリと戸を引いて脱衣所に上がる。ボディーソープやらシャンプーの予備の棚は少し離れた処にある。まず水滴を落とさないようにしないと――と思いつつ下がってくる前髪をかき上げた時だった。
ガチャン、と脱衣所の、浴室のほうではない扉が開いた。
「あ、燭台切」
そこには、タオルを抱えその上に詰め替え用のボディーソープを乗せた主がいた。
「ボディーソープ足りた? 蛍丸に言われて持ってきたんだけど。……、……」
「……、……。」
沈黙。
かくん、と主の視線が下に落ちかけ、慌てたように燭台切の顔に固定されたのが、彼にも分かった。
燭台切はあわててバスタオルをひっつかむと、腰に巻きつけた。
「ああ、うん、たぶん、君の分が、ない、かな……」
「そっか。はい」
言って、視線を固定させたまま、彼との距離を大股に距離を詰めつつも妙な距離を置いた主が詰め替え用のそれをくれた。
「タオルも補充しておいてもらっていい?」
「あ、うん……」
そのままタオルの山も渡される。思わず受け取ると、主はにっこりと笑った。
「それじゃああと任せます」
「あ、はい」
そこで女はくるりと踵を返して脱衣所を出て行った。
バタン、とやや乱暴な音がして扉が閉まった。
「……」
――見られた、はずなんだけど。
セオリーであれば、悲鳴を上げられてもいいだろうに、そんなことは一切なかった。
主とてそろそろアラサー、男の裸は珍しくないというのか。そうなのか。それはそれで複雑である。
などと燭台切がぐるぐる悩みつつ、ボディソープを浴室近くに置いて、タオルを棚にしまった時だった。
ドタン、バタン、というなんとも盛大な音が廊下から響いてきた。
直後、小さな足音がいくつか。
「主! どうしたの?!」
「主さま?!」
蛍丸と五虎退の声だった。合間に「いたい」とか「こしがぬけた」という腑抜た女の声が聞こえた。
燭台切はあわてて体を拭くと、服を着て髪を乾かさずにタオルを首に引っ掛けると脱衣所を慌てて抜け出した。


「いっ……たー!」
残念ながら主は男の裸に慣れているとか、そんなことはさっぱりなかった。
ただ度が過ぎた動揺とは人を逆に冷静にするのである。
ただし、脱衣所から少し行った廊下でなにもないというのに彼女は盛大にこけた。
まことに遺憾である。
何が? とりあえずすべてにである。
意外に盛大な音がしたらしく、軽い足音が二つ近付いてくる。
「主! どうしたの?!」
「主さま?!」
「蛍丸、五虎退」
駆け寄ってくる二人の名を呼ぶ。
二人は廊下を滑るように、いや文字通り滑りつつ彼女の元へたどりついて屈んだ。覗きこむ二人に彼女はややなさけない声をかけた。
「いたい……こしぬけた……」
「なんで?!」
反応が早かったのは蛍丸である。五虎退が這いつくばった姿勢から起き上がるのを助けてくれた。
「立てますか?」
「ちょ、ちょっと休みたいかも?」
なんとか床にべったりと座りこむ姿勢はとれた。うーんと蛍丸が声を出す。
「俺なら、運べるかも」
「いやいや、蛍丸力持ちだけどさすがに」
主が断るよりも蛍丸の英断のほうが早かった。
意外なことに、ひょい、と成人女性の体が持ち上げられた。しかも、横抱き、いわゆるお姫様だっこというやつだ。
「す、すごい……」
五虎退が感嘆の声を出した。
「すごい……けど」
主のほうも感心しつつ、やはり背が足りないために妙に低い位置に不安になる。それに。
「動ける……?」
「ゆっくり……なら!」
やはり問題はそこだった。持ち上げるのと持ち運ぶのはまた別なのだ。
そこへ、ドタバタというなんともみっともない足音が響いた。
あっと声を上げたのは、五虎退と蛍丸。そしてふわりと浮く感覚、蛍丸の声はなぜか下方へ遠ざかる。
え、と見上げれば横抱きの姿勢はそのままに体を支えていた腕が変わっている。
視界に入ったのは、黒髪に金の目。
「大丈夫? 僕が運ぶよ」
体を抱くたくましい大人の男の腕は、まさしく彼女の近侍の燭台切のものであった。
ひ、と思わず意図しない声が零れるよりはやく、燭台切は小さな二人に断って、彼女を軽々と運んで行った。
残された二人は、ぽかんと口をあけてそれを見守るばかりだった。

投げ出されるように私室のベッドに置かれ、彼女の脳裏に一瞬「貞操の危機」という言葉が躍る。
この本丸一理性的だと思っていた男なのだが、と内心青ざめるものの、覆いかぶさってくるような熱も重さもなかった。
ゆっくりと体を起こせば、畳に置いたベッドのずっとむこう、次の間との境の向こうに彼は土下座をしていた。
「しょ、燭台切……?」
ベッドの縁に腰をおちつけて名を呼べば、男は土下座したまま声を出した。
「この度は粗末なものをお見せし、大変申し訳ありませんでした」
「そま……」
コメントしづらい謝罪だ。
というか、彼女には比較し断罪できるだけのサンプルが正直そんなにない。ミケランジェロのダビデ像あたりとでも比べればいいのか?
土下座し続ける近侍の脳天をしばし眺めて、彼女はため息をついた。
「顔上げて、燭台切」
「……」
「もとはと言えば、不用意に入った私が一番悪いと思うんだけど」
そこでようやく燭台切は顔を上げた。それでもきっちり、正座した腿の上に手を置いている。
普段はフランクでありながら、締めるところは締められるのは燭台切の美点だ、と思いつつも、今はその締めるときなのか? とふと疑問にも思う。
「でも、僕は……」
「いやあどっちが痴漢かって言われればあの状況では私でしょ……。正確にいえば痴女だけど」
「でも……びっくりしたんだよね、結局」
「びっくりくらいは、そりゃあ」
またしても妙な沈黙。
お互いにため息をつく。そしてふと、主は近侍の首にタオルが掛かっていて、髪が濡れていることに気付いた。毛の先から滴が落ちそうなほど濡れている髪に、彼女はため息をついた。
「……燭台切」
「……はい」
「そこの鏡台からドライヤーとってこっちに来て」
言って指で鏡台を示す。確かにそこには、コーム付きのドライヤーがあった。
しばし逡巡を見せた燭台切であったが、意を決したように立ち上がると、それを取り上げてベッドに歩み寄る。
主は笑顔でそれを受け取った。
「背中向けて座って」
床を示して言われた燭台切は一つうなづくとそのようにした。
背後のベッドの上で主が動く。ひょいと首からタオルの気配がきえる。直後、ぱさりとそれが頭にかぶさる。そして、タオル越しの優しいマッサージ。
それが終わると、ドライヤーの起動音。コームを外されたそれは充電式のものだった。
髪に暖かい風が当たる。
「慌てて出てきてくれたのね……ごめんね」
「いや、でも」
「はい、前向いて」
肩越しに振り返った近侍の顔を正面に向けて、彼女は苦笑する。
「髪型を気にするあなただからあんまりいじってもらいたくないかもしれないけど……お詫びに乾かせてくれる?」
それに脱衣所のドライヤーのよりずっと風が弱いけどね、と続けて言えば近侍はやっと笑ったようだった。
「ううん、僕こそ」
細い指は意外なほど心地よく、「明日は髪、少し乱れててもいいかな」という言葉はドライヤーの騒音に負けて主には届かなかった。

(了)

[初出]2015年6月15日(http://privatter.net/p/848814)twitter #刀さにお風呂でバッタリ企画
[加筆修正・再掲載]2015年10月17日