賑やかな食堂。騒がしい居間。それぞれを横目に燭台切は執務の間とされている主の私室の次の間を目指す。
執務の間を次の間と別にすれば書斎と寝室を分けることができるよ、と言うと主は首をひねった。
「小市民なので、書斎と寝室が分かれているメリットが分かんないのよね……」
と。
そんなわけで、次の間に執務の仕事は据え置かれ、主の私室は寝室兼書斎になっている。
本業が研究者兼大学講師である彼女は、審神者として招集されない日のほとんどをそこで過ごす。
「主、おやつの時間だよ」
次の間を抜けて締め切られた襖の前で声をかければ、いつもならはあいと柔らかい女の声がするはずだった。
「……?」
だが今は、声は襖の紙の繊維の間に吸収されてしまったかの如く、沈黙が返るのみ。
あけるよ、と声をかけて引き手に手をかければ、書斎はもぬけの殻だった。
ただ、机の周りには先ほどまで「いた」気配がする。開きっぱなしの本が数冊、立ち上がったまま放置されたらしい椅子。パソコンはスリープしているが小さな稼働音が付喪神の耳には届いた。
「……おやつ、いらないのかな?」
無人の空間に呟きつつ、さてどこに行ったのだろうと燭台切は顎を撫でる。それから燭台切は机に近づいて、開きっぱなしの本を一冊取り上げた。
題名に『南奥州』と入るそれは20世紀の研究者の論集であった。そしてその隣には、その研究者が亡くなった後に弟子たちが集まって書き上げた追悼論集がある。題名には同じく『南奥州』というものが見て取れた。
「……うーん」
燭台切は元あった場所にその本を戻すと、くるりと踵を返して部屋を出て、また別な場所に向かった。

本丸には外廊下で繋がった蔵がある。もともとこの本丸は重要文化財にもなるほどのもので、人が住まないために刻々と崩壊に向かっていたものを審神者と刀剣男士の宿舎として移築しあてがい、維持費を浮かせようという魂胆のあるものなのだ。蔵はもともと別棟であったが、主たる審神者の雫石が「あるもの」の収容庫として採用した後、不便だと言うので外廊下で繋がれたものだ。それは、この建物は文化財になるほどのものではあったが、実際にはまだ指定されていなかったためにできた暴挙――文化庁から出向中のスタッフである津野曰く――であった。
そのあるものとは、本であった。蔵は書庫として利用されている。
辿り着けば、重い扉はやはり開いていた。燭台切は苦笑しつつ、扉へ手を伸ばしその人がやっと通れるほどの隙間をさらに広げる。
中は明かりがついていた。電気を通しているのだ。
しかし最初の、入口に作った読書用スペース――読書用の寝椅子や机が置いてある場所だ――に目当ての姿はなかった。
「200番台……かな」
言いながら、燭台切はそこを抜ける。読書スペース近くには、絵本や写真集、昔話に冒険小説など、短刀たちや蛍丸が好みそうなものが並べてあるが、奥に進むにつれ文学全集や古典など、打刀以上が手に取りそうなものになる。そして、最奥。
――いた。
未だにゆるぎないNDC分類の200番台を集めた本棚の間。
その足元にうずくまる影。
影は本棚の枠に背を預け、立てた膝に本を乗せ、指先でページの文を追っている――探しているのだ、と燭台切は思った。
指先を眼鏡越しの瞳が追い、空いた手がさっと頁を捲る。読んでいるのではなく、探しているのだ。コンピュータほどではないが、彼女は書籍から目当てのものを見つけるのが上手いのだ。
燭台切はしばらくそのちんまりとした主の姿を眺めた後、そっと足音を消してそこへ近づく。気配は殺さなくていいのだ。こういうとき彼女の意識は行間に沈み、気配などには気付かない。
近づいて、上から見下ろす。
天使の輪ができた長い黒髪。頁をめくる手は幾振もの刀を束ねるものとは思えないほどに華奢だ。
やがて文章を追う指が止まり、ふう、と彼女が息をついた。
「――主」
そっと優しく呼んだのに、彼女は全身で反応し、ばっと彼を見上げてきた。燭台切は苦笑する。
「鼻眼鏡になってるよ?」
驚きは指摘せず笑いもせず、ただずり落ちた眼鏡を指摘すれば彼女はそれをくいと人差し指で押し上げた。
「どうしたの?」
座り込んだまま仰ぎ見られて、近侍は珍しい角度だ、と思う。小首をかしげる主に妙に女を感じる。
「おやつなんだけど、どうしよっか。持ってくる?」
「あ――もうそんな時間! わかった、行くね」
主はパタンと本を閉じ、胸に抱える。よいしょ、と床に手をついた彼女に彼は手を差し出す。
「ありがとう」
と言って床を離れて握ってくる手はやはり小さく、引き上げる重さも苦にならない。
燭台切はそっと彼女の胸にある本を見た。
「『治家記録』?」
「うん、ちょっと確認したいことがあって」
「一巻……だと僕は手伝えないね」
「というか、主観的な記憶より客観寄りの記録、かな」
主の胸にある伊達家の記録を詰めた書物を活字化した「それ」の第一巻は、たしか政宗の父と政宗のごく若い時期の記録のはずだ。彼が政宗の元に渡ったのは時期が収まっているのは次の巻かその次か。あるいばギリギリそこに収まっているのか。
しかしどのみち、奥州仕置以前の時代を専門とする彼女にとって、燭台切は『来るのが遅すぎた』というやつだ。
パンパンとジーンズについた埃を片手で払う主に、ふと燭台切は言った。
「……そういえば、僕それちゃんと読んだことないかも」
「? そうねぇ、最初の成立は綱村期だし――あなたは水戸にいたからね」
「うん、そうなんだけど、そうじゃなくて」
本を胸に抱えて、主はまた首をかしげる。それにまた苦笑して、燭台切は言う。
「僕が知らない頃の政宗公、知りたいかなって」
――それと、君の見ているものを、少しでも。
燭台切が言わなかった言葉に、もちろん主が気づくはずもない。その言葉を額面通り受け止めて、彼女は頷いた。
「わかった。後で貸すね。……それとこれ、輝宗公の記録もあるの」
「お父上だね」
もちろんそこも読むよ、と言うと主はにっこりと笑った。
そしてその笑顔のまま主は言う。
「ねえ、今日のおやつはなあに?」
その言葉に彼女が政宗公のところからここへ――僕のところへ帰ってきた、と燭台切は不意に思った。
「パンナコッタにしたよ。ソースは黒蜜にしてみたんだ」
言いながら歩きだせば、少女のように顔を輝かせた主がついてくる。
ふと主従がひっくり返ったような歩みに妙な満足感を覚えつつ、燭台切は主を連れて書庫を後にした。

(了)

[初出]2015年4月(http://privatter.net/p/754848)twitter #本丸の書庫
[加筆修正・再掲載]2015年10月17日