登場作品
宮沢賢治『風の又三郎』
石川啄木『一握の砂』
井上ひさし『吉里吉里人』
島崎藤村『若菜集』
[初出]2015年5月30日(http://privatter.net/p/816965)twitter #本丸の書庫
[再掲載]2015年10月17日
――今日は主の故郷(くに)の、隣の国の人の話だって。 蔵を改造した書庫、その入口にとってあるゆったりとした読書スペースにいつの間にか刀たちは集まる。 はじめは、黙読はできても音読が困難な刀剣男士たち――意外に、文字を追いつつ口を開くと言うのは難易度の高い技だったのだ――に手本を示すために主がはじめたことだった。 今では政府の小難しい書き言葉さえすらすらと舌に乗せられるようになったというのに、特に幼い身として顕現したものたちがせがむので、音読手本の会は朗読の会となってなんとなく続いていた。今日は不定期に開かれる朗読会の開催の日なのである。 やがて審神者がやってきて、ことさら優雅にソファに腰掛けてみせると、コホンとひとつ咳払いをする。 「『風の又三郎』」 そして物語は不思議な風の音からはじまった。 それは、童話で「北のひと」と称えられる人の物語だった。審神者によると、狐の話をいくつか書いた「南のひと」もいるらしい。 「北のひと」の言葉は主の故郷の言葉と似ているが、少しばかり違うという。しかしその違いは「西」で生まれた刀たちにはほとんどわからなかった。しかしわからずとも、ときどき「あいづ(あいつ)」の「づ」が鼻にかかっていたり、「何した」という言葉がぶっきらぼうとも暖かいとも言い難い耳慣れぬアクセントで発せられ、刀たちは自らの故郷のものとは異なる主の故郷の言葉を珍しがって楽しんだ。 ただ、会場の一番後ろの列に他の刀達とは違いそれを懐かしむ刀が三振――いや、三人。 大倶利伽羅、鶴丸国永、燭台切光忠である。彼らにとって、主のその言葉はかつての主君たちの言葉でもあった。 その言葉は時代が近世を抜けて刀が戦いの場から必要されなくなるのと同じ頃から、「標準語」に対して「みっともない」「田舎言葉だ」と段々に忌諱され、首都の言葉に飲み込まれて小さくなっていった言葉だ。だがしかし、今もまだそれが現代っ子の主の口からいくらか不意にまろび出るように、その言葉は滅んではいなかった。幾度かの故郷の危機に、言葉は魂のよすがとなり、この23世紀までじっと残ったのだ。 「あんたはほとんど覚えてないだろう?」 大倶利伽羅が密やかな声で言うと、鶴丸はなにを、と笑った。 「俺より先に御家を離れたのがいるだろ?」 言って彼はちらりと視線を大倶利伽羅とは逆側に投げた。ところがその視線を向けられた燭台切はじっと今の主に目を注いでいて、その言葉を聞いてはいないようだった。大倶利伽羅と鶴丸は視線を合わせると、それぞれの体の使い方で「やれやれ」という感情を表した。 朗読は三回に分けられた。三度目で物語が雨と風がガラス窓を揺らす音でもって終わると、刀たちはパチパチと手を打ち鳴らし、主はほぉっと息をついた。 口々に感想を言う短刀たちに笑いかけている主がふと、会場の最も後ろにいた三人に目を当て、言葉を投げた。 「どう、面白かった?」 「面白かったというより、懐かしかった、かな」 好対照な白と黒の二人が何か言う前にそう言ったのは燭台切だった。抜け駆けされた二人はまた「ヤレヤレ」をそれぞれ今度は目を合わせずに体で表した。主が笑う。 「懐かしい、なんて。私は停車場かしら」 「停車場?」 「『ふるさとの訛りなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく』……今日は岩手に縁のある日だこと」 くすくすと主が笑う。三人は顔を見合わせた。歌がわからない彼らではないから、その歌のことは解せた。 「上野かな」 「ええ。……『俺達(おらだ)の国語ば可愛(めんこ)かれ』、よね」 まだ楽しげに笑う主に大倶利伽羅はふうと息をつき、鶴丸はつられるように笑い、燭台切は優しく幼子にするように首をかしげた。 「ねぇ、ちょっといい?」 そこへ、軽々と声が響いた。見れば、乱藤四郎が一冊の本を手にちょこんとそこへ立っていた。 「なに?」 優しい声音で答えたのは主である。そんな彼女へ、ずいと彼は古い本を差し出してみせた。 「『若菜集』? 島崎藤村ね、どうしたの?」 「あのね、ちょっとよくわからないのがあって。……読んでもらってもいい?」 可愛らしく甘えるように小首をかしげる様はまるで美少女なのだが、彼はれっきとした美少年だ。 その彼にぱらりぱらりとめくられてぴたりとあるページでしっかりと開かれた本を、主は教師よろしくそれを受け取った。 「……『狐のわざ』?」 「そう! ね、読んでくれる?」 主は少し困ったような顔をした後、こほん、と喉を整えた。優しい声がまろび出る。 「庭にかくるゝ小狐の 人なきときに夜いでて 秋の葡萄の樹の影に しのびてぬすむつゆのふさ 恋は狐にあらねども 君は葡萄にあらねども 人しれずこそ忍びいで 君をぬすめる吾心」 紡がれた言葉は今度はひとつの訛りもなく、ただひどく優しく、心地よい。だがどこかに一つまみ、寂しさを抱えるようにも――ある者の耳には聞こえた。 「ねえ、どうして狐と葡萄なの?」 「イソップのお話よ。古代ギリシアの――寓話ね。狐は木に実った葡萄が食べたくて、何度もジャンプするんだけど、結局とれなくて。狐は最後にこういうの。『ああ、きっとあのブドウは酸っぱいに違いない!誰が食べてなんかやるもんか』ってね」 「わ、負け惜しみだ!」 乱が笑って言うと、主も静かに笑う。 「恋も似たようなもの、なのかもね。とはいえ、藤村の詩のなかではどうなんだろう。……この「める」は「めり」の連体系だろうし」 「んーと、酸っぱいかどうかは置いといて、あなたを手に入れてみたいと私の心は思うのです、ということ、かな?」 乱は解説せずとも、さすが意味を読みとれたらしい。主は頷く。 「うーん。狐と葡萄はわかったよ。……でもなんで恋なのかなぁ? 恋は、甘いんじゃないの?」 その言葉に、ふふふ、と主は笑った。 「とっても酸っぱい恋もあるの。……そしてこの恋はジャンプしてもジャンプしても届かなかったのかもしれないわね。……乱ちゃんもいつかわかるかもね」 「ふぅん……。ねぇ、主は酸っぱい恋、したことあるの?」 その、何気ない質問に主の目が泳いだ。そして、一瞬、その目が彼女の近侍の上――燭台切の上で止まる。だがそれも本当に一瞬のことで、視線は傍らの乱に逃げて込んでしまった。 「そりゃあ、もうあと三年で三十路だもの。いくつかあるわ。高校生の時とか」 「えっ、ねえねえ、それ、聞いてもいい?」 乱は好奇心いっぱいに言い、主の腕にすがった。主は心底困った顔をする。 そのときふと、燭台切はすでに傍らから伊達に縁故のある二人が消えているのに気付いた。恐らくは朗読会が終わったのでその後の展開は置いておいて好きな本を探しに行ったか、すでに書庫を出ているだろう。燭台切はふと迷い――乱に答えるかどうするか考えあぐねている主を一瞥すると、彼らにならって足早にその場から離れた。なぜ自分がそうしたのかは、彼には少しばかり自覚があったが、そっとそれには目をつぶり、乱になにがしか答える主の声もあえて耳に拾わせなかった。 その夜、皆が寝静まった頃、燭台切は非常用のランタンを取り出して、そこへ火を入れるとそれを持って書庫へと向かった。 書庫は蔵造りである。火、蔵、と並ぶと彼を心配する者もいるのだが、彼にはなんのこともない。火は彼にとって母なる赤き熱い海であり、蔵は日々を過ごす場所であった。それは結局、他の刀剣たちと変わらない。過剰な気遣いなのだ、とありがたくもそう思ってしまう。 それでも、なぜランタンなど使うのか、懐中電灯あるいはそれ以外の携帯の電気照明はどうした、というものもいるだろう。 それには、明るすぎる灯りはどうも今夜に似合いでないから、と彼は答えるしかない。彼はこの――書庫へ渡る際に見た空は朧に輝いていた――夜には、人工的な強い黄色の光ではなく、火の赤々とした灯りを必要としたのだ。 蔵の入口へ辿り着くと、ランタンを一度地面へ置き、重い扉を開ける。幸い、音は響かなかった。 そしてランタンをまた取り上げて、中へ滑り込む。書庫にはとっくに電気を通してあるが、燭台切はその古めかしい銀のスイッチをパチンと持ちあげる気にはならなかった。真っ白な人工灯の光は朧の夜にはやはり必要ない。 手元の暗さに長丁場を予想しつつ入口で灯りを掲げると、不意に目当てのものが見つかった。 読書用のスペースのローテーブルの上。 乱が読み終わった後、棚に戻さなかったかそれとも忘れてしまったのか。 蝶が羽を広げる表紙のそれを、燭台切は手袋に包まれた手でひょいと持ちあげ、あちこちから眺めてひとつ息を吐く。そしてそれとランタンを片手に書庫の奥へ向かった。 実は書庫には、二階がある。そこはほとんど物置になっている。主はいつかは読書スペースを拡張するか休憩スペースを作りたいと言っているが今の状態だとそれはいつになるやら、という、そんな場所である。 燭台切はトントントンと軽やかな足音をさせつつ、急で手摺のない、板張りの色が渋くなった階段を上り、そこへ辿り着く。 布の掛けてある箪笥など、蔵と皆が暮らす本丸といわれる古い建築物に付属してきた物のうち、まだ出番のないものたちが待機する間を抜け、燭台切は明かりとりの窓に近づいた。 ぎいと観音開きの扉を開ければ、格子のむこうはやはり朧月だ。 煙るような雲のむこう、まるい明りは格子を越えてくるには細く優しすぎ、本に目を落とすには心もとない。 なので、彼は床に置いたランタンに本を近づけ、背をこごめる。 そして、目を凝らして拾いあげた文字の列に、彼は主が褒めてくれる声音で旋律を与えた。 「……庭にかくるゝ小狐の 人なきときに夜いでて……」 月も薄衣を纏う夜、その声がどこへ消えたかは誰も知らない。 (了)
登場作品
宮沢賢治『風の又三郎』
石川啄木『一握の砂』
井上ひさし『吉里吉里人』
島崎藤村『若菜集』
[初出]2015年5月30日(http://privatter.net/p/816965)twitter #本丸の書庫
[再掲載]2015年10月17日