虹のふもとには宝物があるのよ、と主が言ったのはお昼のこと。
暑さも峠を越し、ようやっと野外での活動も苦でなくなりつつある今日この頃。
食堂に集まった全員の前には、今年最後だという素麺と薬味と付け合わせ――錦糸卵は少ないと不満が多いので見た目にも一番多かった――、それから食べざかりと体を動かした者に嬉しいように鳥の胸肉とネギを炒めたもの、夏野菜の揚げ浸し、海老のてんぷらなどがおかずに並んでいる。
てんぷらを揚げていたのは主らしく、彼女は長い髪をひとつにして額の汗を手の甲で拭ったりしていた。
そして、いただきます、という直前に――
「あっ、虹だ!」
と開け放った廊下へ続く障子の先、庭の向こうを厚が指差した。
そして食事のことを一瞬忘れた座がわぁと歓声をあげたとき、ふと主が言ったのだ。
――虹のふもとには宝物があるのよ、と。
「それ本当ですか?!」
それに一番に食いついたのは、いつも好奇心いっぱいの秋田藤四郎だった。主は笑う。
「どこか外国の言い伝えだったと思うけど、虹って山みたいでしょ。だからそのふもとには宝物があるんですって」
「わあ……宝物って、なんでしょう?」
そう言ったのは食卓でひときわ小さくなっている五虎退だ。彼は先に声を上げた秋田より体は大きいというのに、どうもいつも小さく見えるところがある。
問われた主は首をかしげて見せた。
「さあ、なんでしょう? 誰もまだたどり着いたことがないから、わからないんですって」
その言葉は答えというより謎かけめいていて、藤四郎の兄弟たちは特にこころをひかれたようだった。
「なんだか、ロマンチック!」
そう言ったのは乱で、ふと平野が考え込むようにする。
「そういえば、虹は追いかけると遠ざかりますもんね」
とにこにこして前田がいえば、そういえばそうですね、と平野がうなづいて見せた。
そこへ冷静な声が通る。
「虹ってのは、細かい水の粒に光が反射して出る現象だろ? ふもともなにもあったもんじゃないんじゃないか、空中にできるもんだし」
それはは薬研だった。理性的で科学的な指摘に場が静まり返る。
「……やーげーんー」
とその脇腹を小突いたのは鯰尾だった。
しまった、と薬研が言う。彼は特に意気消沈する秋田と五虎退を見て首を振る。
「俺としたことが、野暮だったな、すまん」
鯰尾が「あーあ……」と言い、乱が薬研に「もー!」とぷりぷりと怒って見せる横で、博多が「宝はなかか……」と皆とやや違う落ち込み方をしていた。
骨喰は特に意気消沈する小さな二人――秋田と五虎退があんまり哀れに見えたのか、自分のところにとりわけていた鶏肉をひとつずつ二人に分けてやっていた。そこへまた横合いから箸が伸びて、海老のてんぷらがそれぞれのところに置かれた。見れば鳴狐である。
二人が慌てると、鳴狐のお供の狐がからからと笑いながら言った。
「心がしょんぼりいたしましたときは、お腹がいっぱいになると不思議と心も膨れるのですよ! 鳴狐のことならお気になさらず!」
「そう、気にしなくていい」
お供と骨喰の言葉に二人は礼を言った。
一期一振はそのやり取りを優しげに見守っている。
「おかず、足りなければなにか追加できるから、きちんと言うんだよ」
そう言って主の隣りに座ったのは近侍の燭台切だった。その反対側に歌仙も腰かける。
主はあたりを見回して、長谷部や鶴丸など大人の姿をした刀剣男士たちもそろっていることを確かめると、いただきます、と号令をかけた。
大人の形をしているものたちにはいつもの昼食となったが――大人の形のうち、鶴丸国永だけがなにやら考え込みながら素麺を啜っていた。


昼が過ぎ、八つ時の少し前――
外廊下をぷらぷらと歩いていた鶴丸は庭木に水をやっている主を見つけた。
「おぅい主、水なら夕方にやったほうがいいんじゃないか? 乾いて余計干からびてしまいそうだ」
「うーん、やっぱり?」
言って主は鶴丸へ体を向けてひょいとシャワー型の口がついたホースをひょい、と動かした。
上下に動いた小さな滝に、ごく一瞬虹があらわれて鶴丸は目をパチクリさせた。
「主、今のをもう一度!」
「今の?」
「そうだ、その水、上下に振ってみてくれ!」
主は首をかしげつつ、手首を使ってホースを上下に動かした。
小さな滝が上へ下へ――やはり虹を作った。
「主、虹だ!」
勢い込んで鶴丸が言うと、優しく主が笑う。
「そう、虹よ」
「しかも小さい! どういうことだ?!」
目を輝かせる鶴丸に、主は慈母のように笑う。後に語ったところでは、幼少期に鶴丸のように小さな虹を発見してはしゃいだことがあることを思い出していたらしい。
「薬研がさっき言ってたでしょう? 細かい水の粒に太陽の光が反射するのが虹。これは、それと同じ原理なの」
「成程!」
鶴丸あんまりわかってないでしょ、と主が言う間に彼は靴脱ぎのところにあった誰かのサンダルをひっかけて庭へ下りていた。その行動に察した主は少々ため息をつき、トリガー式のノズルから指を離して水を止めた。そしてごく近くまで来た彼にそれを手渡す。
鶴丸は主からホースを受け取ると、それを空へ向けてからトリガーを引いた。
水が空を舞う。
ごくわずか水が顔へ降りかかったが彼は気にしなかった。あちらへこちらへ逆巻く滝を動かしてみると、虹が現れたり消えたりした。
「こいつは驚きだ……!」
主は笑いながら、満足したら片づけてね、と言って鶴丸が先ほど降りた廊下へ上がっていった。
そんなわけで、主は鶴丸がなにやら思いついてポンと手を打つ様子を見ていなかった。

太陽は日増しに秋へと傾く。
やがて誰もが虹の話など日常に押しやられて忘れてしまった頃。
それは夏の晴天と秋晴れの間のような陽気の日のことだった。
「……虹」
畑仕事をこなしていた五虎退が、ふと言った。そばには秋田だけだったので、彼が答える。
「どうしたんです?」
「虹って……ほんとうにふもと、ないんでしょうか」
「うーん」
忘れてしまったのは大人の姿をしたものたちだけだったか。本丸でも小さい方に入る二人は、覚えていたらしい。
「薬研兄さんは、嘘つかないですよね……」
「ですよねぇ……」
言って、二人はため息をつく。
その時だった。
シュッ、と何か音がした。
その音に、ぱっと身構えたのは秋田だ。五虎退のほうは身をすくめてしまった。
「何の音でしょう?!」
秋田は辺りに油断なく視線を向ける。五虎退はきょろきょろとあたりを見回した。
「虎くん、でしょうか……?」
五虎退が内番の間、虎たちは自由に庭を、屋敷を闊歩しているのだ。
音のした方へ首をめぐらせれば、畑と庭を区切る生垣がある。そこで虎が遊んでいたら、何らかの音はするだろう。
だが、木も葉も、揺れはしていない。
秋田が足を開いてぐっと踏ん張り、その後ろで五虎退も身構える。
殺気はない、気配も――ない。ではなんだろうか。
いざというときは本体も呼び出さねばならない――二人がそう覚悟を決めた時だった。
シュッと再び音がして、ぱっと生垣の上に何かが舞った。直後
「虹!」
生垣の上に咲いたのだ、七色の、半分の円。
二人は驚いて生垣に近づく。
するとどうだろう、生垣の周りだけ雨が降っていた。
「雨?」
「な、なんでしょう、狐さんのお嫁入りにしては、範囲が……狭いような」
二人は顔に降りかかる水滴をぬぐった。
ぬぐったものは、ただの水であるようだった。
再び見上げれば、虹がすうっと消えていく。
雨がやむのだ。
「消えちゃいました」
「……はい」
二人は顔を見合わせる。
その時、また今度はシューっという音がした。生垣の横手、庭へと続く大人の腰の高さほどの、小さな木戸。
そこに虹が差しかかっている。
「えっと……」
「ふもと、だと木戸が宝物なんでしょうか」
二人は再び顔を見合わせた後、恐る恐る木戸へ近づいた。
あと少しで手が届く――そんな距離に来ると虹は消えてしまった。
しかし木戸はしっかりと濡れている。
秋田は木戸をなでてみたりし、五虎退は生垣の下をのぞきんで見たりした。
もちろん、虎はいないし、何もなかった。宝めいたものも。
二人が三度顔を見合せた時――木戸の向こう、庭の一角にこちらも三度虹が上がった。


赤が舞う。橙が踊る。黄が飛ぶ。緑が開く。青が咲く。紫が胸を反らす。
二人が虹を追い始めると、次々に小さな虹が立ち、消えていった。
生垣、木戸の次は屋敷の樋から下へ落ちかかるように。さらに池のほとりに、架かる橋に。
二人は虹を追いかけた。
追って追って追いかけて、たどり着いたのは屋敷に作られた鎮守の杜。
本丸と呼ばれる屋敷が移築されたとき、一緒に移ってきた屋敷神の社がある杜だ。樹齢の若いものは社に従い移されたという、小さな小さな、明るい杜。
その入口に虹が、まるでゲートのように架かっている。
「あ、秋田……」
迷うことなくそこをくぐろうとした秋田を五虎退は止める。
「ダメです……」
五虎退は杜の奥へ視線を送る。鎮守の杜の奥には、いるのだ、神が。
付喪神のようなアヤカシに近いカミでなく、本物の神が。
いつのころからかヒトに寄り添い、崇められ頼られ、いつのまにか寄り集まって一つのカミとなった、ホンモノの神が。国産みの神や種々の祭祀をもつ神ほど強くはないものの――決してアヤカシではない、ほんとうのカミ。
しっかりと気配をさせつつも、彼らを寄せ付けないカミなのだ。
それは決して、刀剣男士たちの前には姿は現さない。
「これ以上は……あの、失礼になります……」
「でも、屋敷の神様は僕たちに意地悪したりしませんでしたし、ずっと、見てくれている感じがするんです。きっと、ちゃんとお邪魔しますって言えば大丈夫ですよ!」
虹は杜の入口に掛かり続けている。
秋田は杜の奥を向き、かかとをそろえて両腕を体の側面へぴったりつけると
「お邪魔します!」
と最敬礼した。そして、意を決して一歩踏み出す。
秋田が杜へ入ると、五虎退も慌てて「お邪魔しますっ」とできる限り体をぺっこりと折った後、その後を追った。
二人がすっかり杜へ入ると、ふっと虹が消えた。

杜は若い。
二人の背丈よりは高い木が密集してはいるが、頭上は開けていて、暗くはない。
だがさすがに虹は現れないようだった。
しばらく、といっても数十歩だろうか、進むと屋敷神の社にたどり着いた。
とても小さな、石の社。
「屋敷神さまは、守り神さまだから確かにみんなの宝物ですね!」
「ちょっと宝物っていう言い方は、失礼かもしれません……」
かわいらしい社を見ながら言った秋田のうきうきとした明るい口調を、五虎退がわずかにたしなめた。秋田はその言葉にはっとしたように、慌ててぺこりと社に頭を下げた。五虎退も続く。
ちょっと拍子抜けするような幕切れ――妙な虹だったが、なんだかまっとうなところに連れてこられてしまったなぁと思う二人はそっと辺りを見回した。
思えば社にしっかりと近づいたのは初めてであった。
「あれ……?」
ふと見れば、薄く社の上に虹掛かっている。石の屋根は水にぬれて黒く色を変え――水が屋根から地面へ落ちる。
前に雨が降った時にでもついたのだろうか。たまった水はわずかなくぼみをたどって流れていく。その水の行く先を見れば、若い木の下にぽっかりと穴があいている場所があった。
根と根の間に、兎が巣穴でも掘ったのだろうか。穴があるのだ。
まるで水の流れは、それを二人に見つけさせるかのようにそこへ向かって進んでいく。
「なんだか、お社の神様が指差しているみたいですね」
秋田がぽつりというと、五虎退が木とのわずかの距離をあっという間に詰めた。
「も、もし兎さんがいたら、大変です、水が流れ込む前に出してあげないと――!」
「兎じゃなくても、子猫がいるかもしれませんね!」
秋田も遅れて追いつき、そして同時に木の股を覗き込む――だがそこに、動物はいなかった。
ほっとしつつも
「あれ」
と二人は声を上げた。
鈍く光るものが一つ。五虎退はごくりと唾をのみ、秋田は一瞬息を詰めた後それへ手を伸ばした。
固い感覚。だが、つかめる。
「えいっ」
秋田はそれをぐいと穴の中から取り出した。
杜のやわらぐ陽光の下にさらされたそれは、小さな鉄の箱だった。片手に収まるほどのそれに二人は首をかしげ、五虎退がこわごわわずか身を引くのとは対照的に秋田はその蓋へと手をかけた。
ぱかり、と案外簡単に開いたそれに五虎退は身を震わせ――バクハツしたらどうしようと思ったのだ――秋田は「わあ」と声を上げた。
「五虎退、見てください!」
頭を抱えて目をつぶった兄弟に、秋田は明るい声を投げた。
五虎退がその声に従って、そぉっと箱を覗き込むと、そこには古びた金の鍵がひとつ、収まっていた――

「鍵? 何の鍵かしら、お社に鍵はかかってないし」
「きっと虹のふもとの宝物の鍵ですよ!」
「はい……きっと」
社へ退出のあいさつをしたあと、二人は庭へと舞い戻った。ちょうど主と近侍の燭台切が庭へ面した廊下へ出てきており、二人は彼らを見上げて不思議な体験をしたことを報告した。
消えては現れる不思議な虹に、鍵のこと。
古びた金の鍵は、昔の鍵のようだった。筒状の軸に板一枚の歯。持ち手は、おそらく鍵束につなげるためだろうか、丸い形で穴が開いていた。いわゆるスケルトンキーというものである。
「うーん、社の近くから出てきたなら屋敷のどこかかな? でも開かずの部屋なんてのもないしなぁ」
顎をなでながら言ったのは燭台切である。
秋田が主へ鍵を差し出し、彼女はそれをためつすがめつするように眺めた。
「蔵かしら」
「蔵の鍵穴に差して回したら折れそうだけど」
この屋敷の古株である主と近侍が知らないのであれば、仕方がない、この屋敷は元の持ち主の手を離れ、保存のために移築されたものなのだ。主も近侍もこの戦に召集され屋敷をあてがわれるまで、そもそもこの屋敷とは縁がなかった者たちなのだ。それは秋田や五虎退と変わらない。
「うーん……あ、ちょっと待ってて」
主はふと何か思いついたようだった。鍵を持ったままひょいと踵を返して行ってしまう。
近侍と短刀二人が首をかしげて数分、彼女は戻ってきた。
そして秋田の前の廊下の板張りに膝を着く。
「もうちょっとこっち来れる?」
「はい!」
秋田が外廊下に近づけば、彼女はにっこりとして何かを首にかけてくれた。
それは、リボンに通した鍵であった。
「うわぁ……」
古びた金に良く似合う、黒いサテンのリボンだった。
「どこの鍵だかわからないけど、二人が見つけてきたからね。秋田藤四郎および五虎退藤四郎を鍵穴探し隊に任命します」
最後の台詞を妙に芝居がかった口調で主は言い、短刀の二人は笑う。
「任命、ありがとうございます! じゃあ僕、探検続けていいんですね?!」
嬉しそうに言う秋田に「もちろん」と主は言った。
「あの、ええと、虎くんたちがいろいろな所に入るので僕はそのついでにいろいろ見てみます」
五虎退が言うと主は「それは頼もしい!」と言った。
その様子を見て燭台切がくすくす笑う。
「特別な任命かぁ。長谷部くんには内緒にしといた方がよさそうだね?」
燭台切のその言葉に残りの三人は口の前に人さし指を立てて笑い合った。
「さて、と」
主はそこで立ち上がり、庭にいる二人へ言った。
「もうそろそろおやつの時間だから着替えてきて」
「はい!」
言うと二人は玄関の方へ駆けて行った。さすがは大名家の短刀だ、というところだろうか。靴を脱ぎ捨てて廊下にあがるようなことはせず、玄関へ向かったことに主は関心したようだった。
「……それにしても、鍵なんて、誰の悪戯だろう?」
傍らの高い位置から発せられた声に主は顔をそちらへ向けて苦笑した。疑問を発した近侍ともどもわかっているのだ、本当は。
「任せましょう、悪いことはしないでしょうし」
「それもそうか」
それからふと、燭台切は遠くを見た。
「虹のふもとには宝物、か。……虹には追いつけないから、宝物はそう簡単には手に入らないって意味なのかな」
その近侍の言葉に主はいやに真剣な顔になる。近侍はどうやら、言葉の裏に隠された真意について述べたらしい。
「『青い鳥』だと思うな、私は」
「青い鳥?」
「幸せの青い鳥は、ずっと近くにいた、ってね」
メーテルリンクよ、と言って彼女は庭を見回し、何かを見つけたらしく不意に庭へ下りた。燭台切が首をかしげていると、彼女は庭の片隅にあったホースを取り上げていた。それをひっぱり延ばし――「あれ、短い?」と言った後彼に手招きする。
燭台切は靴脱ぎで共有のサンダルをひっかけると、彼女の傍らに寄り添った。
その間に主はノズルのトリガーを引いて水を放ち、その首をあちこちに向けていた。
それからとある方向に水の逆巻く滝を作ると
「あ、出た出た」
と言った。太陽を背に彼女は笑う。そして水を止めるとそれを近侍に手渡した。
「水、出してみて」
言われて燭台切は彼女をまねてノズルを天に向けてトリガーを引いた。
すると、水の登る頂点に小さな虹が現れた。それを見て、ひょいと主が体を傾ける。虹と近侍を一つの視界に入れたのだ。
「私から見ると、あなたは虹のたもとにいるように見えるの、燭台切」
言われた燭台切は水と虹、そしてホースと主を見比べた。
たもと、とは、ふもと、の意もあるのだ。
虹はいま燭台切の目の前にある。あるいは――彼の手元から現れているのだ。
「太陽の作る虹はもっと大きいでしょう? いろんなところから見える、大きな山みたいよね。だったら、虹の見えるところは全部ふもとなんじゃないかしら」
姿勢を正して見上げてくる主の言葉に燭台切は笑う。
「なるほどね、宝物はそこここにある、か」
それから彼は水を掲げる腕はそのままに主のいる方とは逆に体を傾けた。先ほどの主の姿勢を映したような形をとる。視界の中に、虹とそれをおさめるのだ。
「……こっちから見ると君が虹のふもとにいるように見える、ね」
その言葉に主が首をわずか傾げ、一瞬遅れて困ったように笑った――その時だった。
二人の頭上にふいに影が差した。妙な、普通でない影――
「危ない!」
燭台切はホースを捨てて主を庇った。


「……ありゃあ、失敗したな?」
影の次に頭上から降ってきたのは声だった。
燭台切はきっとそちらを見上げる。腕の下にとっさに庇った主は驚愕の表情で固まり、体を小さくして近侍の胸に収まっている。
「鶴丸さん!」
燭台切が名前を投げ上げれば、頭上から笑いが降ってくる。
「お二人さんの上に虹を咲かそうと思ったんだけどなぁ」
鶴丸の白い姿は平屋の屋根の上にある。すっくと立つその姿は堂々としていて悪びれるところがない。そしてその小脇には、バケツ。
先ほどの妙な影は、明るい影だった。プールの水底にできるような、太陽の光を写し取った、水に映る明るい光だったのだ。
それが上から降ってきて、燭台切はとっさに主を庇ったものの、水は彼の腕をすり抜けて主まで届いてしまった。
いま二人はその水でびしょぬれの状態である。
そしてバケツという物的証拠を持つ鶴丸が、二人に水をかけた犯人なのである。彼こそが天から水を撒いたのだ。
「つ、鶴丸」
近侍の腕の庇護の中で主が声を上げた。
「虹っていうのは、水が小さくて細かくないと、できないのよ、前にも言ったでしょ」
「ああ、そうだった!」
鶴丸は主の指摘に心底己の失敗を悔いる声を出し、燭台切は
「指摘するところそこじゃないよね……」
と腕の中へ言った。
ずぶ濡れの主がため息をつきながら濡れた前髪を左右へ払い、同じくずぶ濡れ燭台切が彼女を開放してこれまた濡れた前髪をかきあげた時だった。
「おい、光忠、五虎退を知らないか? 虎がどいつもこいつも泥だらけで――」
「主、――庭のあちこちに水溜りが。晴れているのにいったい……」
大倶利伽羅が虎を一匹抱えて現れ、その反対から長谷部が困惑した声を出しながらやってきた。
そして二人は、水もしたたるなんとやらな二人と――その頭上、黒い瓦屋根の上、太陽の下に眩しい白をさらす鶴丸を見つけて、同時にこう言った。
「犯人はお前か、鶴丸国永」

……かくして鶴丸は、五虎退の虎たちのシャンプーと、ひどい水溜りの処理を命じられた。もちろんおやつは抜きである。
そう、秋田と五虎退に虹を作ってみせたのは、鶴丸国永そのヒトであったのだ。
庭の池からポンプで水をくみ上げ、庭にホースを張り巡らせ――先ほど主がホースが短い、と言ったのは鶴丸がそこからも拝借していたせいだった――あちこちに虹を作る装置を作り上げていたのだ。なお、池の減った水については歌仙に元に戻すようにも命じられていた。水が減った池でいくらか鯉が居心地悪そうにしており、風流を欠くためであった。
後片付けについてはともかくも、鶴丸はそうやって二人をあの小さな社へと導いたのだ。
一通りの後処理を終え、汚れた服を着替えた鶴丸は台所へ向かった。さすがに腹が空いたのである。忍び足で廊下を行けば――燭台切はともかく、歌仙に見つかればわずかな食料も得られないと思ったのだ――
「鶴丸殿」
と声をかけられ彼はわずかに肩を震わせた。
振り返れば、一期一振がそこにいた。
「なんだ、君か」
一期は笑う。
「秋田と五虎退と遊んでいただいたようで、お礼をと」
その言葉に鶴丸は眉を上げた。
「なんだ、二人にバレてしまったのか?」
「いいえ、主や燭台切殿のお話を聞いて推理を。弟たちに何か言う野暮な方もいないようです」
「成程、そりゃよかった」
鶴丸はにっと笑う。
「虹の下には宝物はあったほうがいいだろう?」
一期は少しばかり笑みを曖昧にすると、その問いに対する答えとは別の言葉を述べた。
「弟たちの夢を尊重していただき、ありがとうございます」
「いいや、遊んでもらったのも、夢を大事にしてもらったのも俺の方だ」
鶴丸は淀みなくそう言った。一期は首をかしげる。
「薬研だったらきっと虹は追わなかったな。乱や厚だってすごいとは言っても怪しんで追いかけたりしなかったはずだ。平野と前田もしっかり者だしな。博多は……どうだろうな、純粋には追ってくれなかったかもしれんな」
そこで一期がふと苦笑に近い笑みを見せた。
「秋田と五虎退なら、俺の夢ごと探してくれるかもしれん、と思って実際にそうしてくれた。虹のふもとには宝物がある――皆は懐疑的だが、俺はそうだといいなと思っている」
俺が二人に見せたのは作り物かもしれんが、と鶴丸は続ける。
「それでも追いかけていけば、いつか本物の虹のふもとにいけるかもしれん」
二人にはお手本を見せてもらったんだ、という鶴丸に一期は少しばかり目を丸くした。
それから一期はふと訊いた。
「そういえばあの鍵は、どこのものなんです?」
すると鶴丸はああ、と言いかけて、再びニッと笑った。
「君は主の鍵穴探し隊に任命されていないな? それでは教えられないなぁ」
その言葉に一期は確かにその通りですね、と苦笑した。
そんな一期に鶴丸はまじめに言葉をかけた。
「ああ、礼なら屋敷神にも言っておいてくれ。実は箱を隠す場所をよく考えてなくてな、鎮守の杜まで虹を咲かせるのは考えてたんだが。あの穴を教えてくれたのは屋敷神なんだ――二人のときと同じく、水の流れで場所を示してな」
一期は鶴丸のその言葉に、付喪も千年を超せば古き神と接触できるのか、と驚いたが、鶴丸は笑いながら首を振った。
「なに、あの屋敷神が面白がってくれただけだ」

その日の夕方、茜色の空にこの夏最後の虹が咲ったという。

(おしまい)

[初出]2015年10月22日(http://privatter.net/p/1105745)
[サイト掲載]2015年12月14日
[Special Thanks]まめた