――人間って言うのは、技術は進化しても精神ってのはイマイチ進歩してねぇのかもな。
かつてそう呟いたのは専攻の先輩だ。今、彼女はそれをかみしめている。
「おのれ学閥……」
呟いた言葉は思ったより力なく、吐いた息はその勢いよりかなり白い。
「さむっ」
今更のように寒さに気付いた彼女は、ひょいと左手を持ちあげる。手首に巻き付けた腕時計型の端末にふれれば、パネル型のホログラムが浮かび上がる。
「ウェア、ヒーター、適温」
そこへ向かってそう声をかければ、文字盤に「O.K.」の二字が浮かび上がる。それからきっちり五秒後、コートが温まり始める。
コートの下の衣服の断熱性のなさに、そういえば今はスーツを――二百年前に普及したビジネス用の制服めいた着物だ――着ているのだと思いだし、彼女はまた白い息を吐いた。
もうしばらくすれば、ポッド――自動運転装置付き自動車――が迎えに来るはずだ。それまでの辛抱である。とりあえず、寒さについては。

西暦2205年――
19世紀から始まった人類の技術革新は予想よりも遅れつつも、確実に進捗していた。2000年代に予想されていたウェアラブル端末はとうの昔に実装され、衣服にはそれと連動した冷暖房装置がついている。夏でも厚着、冬でも薄着という選択は気温と言うよりも個人の趣向に左右されることとなった。
20世紀に爆発的に増えた地球の総人口は21世紀の終わりに平坦期となり、23世紀のいまでは下降期に入った。100年周期の自然災害はなりをひそめる時代を終え、今再び宇宙船地球はその身じろぎによって人類を振り落とす時代になった――
――っていう世間サマの言説は人を不安にするよねぇ……。
ポッドが窓ガラスに映しだすニュースを眺めながら彼女は思う。
伝染病と自然災害をもっともらしく解説するニュースの隣には「不景気」というニュースが踊っている。
「衣食足りて礼節を知る、か」
1929年10月の大恐慌以来、幾度目かの世界的不景気を迎え、またしても人類は行き詰っている。要するに、金がないからみんな生きづらいのだろう、と生業のように歴史を眺める彼女は思う。
それからふと思い立って彼女はガラス面に声をかける。
「ソースティン・ヴェブレン」
すると不愉快なニュースたちは溶けるように消え、現れたのはひげ面の男性である。写真の下に彼女が呼んだ名前と「(1857年7月30日〜1929年8月3日)」とある。
「……やっぱやめ」
大恐慌を予言するかのような言説を遺し、早めにこの世を切り上げた経済学者の顔を見ただけでなんだか落ち込んでしまい彼女はガラス面に中止を命じた。
いかんせん自分と彼の専攻は似て非なるものだ。同じく「文系」と大きくひとくくりにされるが、助け合い交わることはあれど異なる学問なのだ。
――でも歴史学の博士よりは食い扶持あったよね、確実に。
ひげ面の研究者が辿った紆余曲折な人生はそれでも今の自分より恵まれていたはず、と思った後むなしくなり、彼女はポッドに命じた。
「消灯、ついたら起して!」
するとポッドは男女どちらともつかない声で「はい、おやすみなさい」と平坦に答えた。

這う這うの体で三年かけた博士論文を提出し、マシンガンで銃撃されるような口頭試問を切り抜け、博士号授与の連絡を主査から軽い調子で告げられたのは一週間前。
学位的には「博士号(文学)」であるが、専門は日本史である。
得たからと言って世間的には瞬間最大風速的に褒めそやされることはあっても、食い扶持に直結することはない。これは20世紀からなぜか変わらぬ摩訶不思議――でもない法則である。研究職の椅子とは常に限りあるものである。また研究職は教育職と並列することが多いため、人口推移が下降線を描く23世紀ではその席が年々減っているのもいたしかたないことである。
先ほど彼女がスーツを着ていたのは、就職活動のためである。
助教、准教授の公募があると聞いて応募し、書類審査段階では『博士号取得予定者』であった彼女は辛くも面接までは残ったものの
「どうしてT大やK大に行かなかったの?」
という質問でさすがに悟った。
――うちが欲しいのはT大やK大なんだよ。
言葉の裏にそういう意味があることに。実際、彼女より先に博士号を取得した者たちは渋滞を起こしている。男女による就労差別は20世紀、21世紀よりはなくなったとはいえ、学閥はどうにも、存在し続けているようだ。旧帝大、というブランドと――その能力差は如何ともしがたいのだ、未だに。
「とはいえ……」
ポッドをおり、アパートに辿り着き、ドアに右手をかざしながら彼女は呟いた。
静脈を読み取る光が掌を撫でる。ピッと音がして鍵が開く音がした。
「論文数もそんなにないし、講義もつのも来期からだし、仕方ないか」
いわば彼女は免許取れたてなのであった。そもそも学閥以前の問題かもしれないと思いなおし、家に入る。
「ライト、オン」
声を天井に投げかければパッと灯りが着いた。
「はあ……」
ワンルームの部屋は電子機器が小型化、モニターがパネル化していること以外は21世紀の単身者の部屋となんら変わりはない。変わっているとすれば、電子書籍が50パーセント程度の普及率を誇る23世紀においても、紙媒体の本がこの部屋には多いことくらいか。もちろん部屋の主の彼女も、娯楽本は電子端末で読むこともある。だが彼女は、どうも紙の本が好きらしかった。研究で使う資料は、たとえ現物が手に入らなくとも紙に出力している。
部屋は適温に保たれている。コートを脱ぎ、ひとつに結わえていた長い髪を解き、ゆるい部屋着に着替え、ベッドに寝転がる。長い黒髪がベッドへ広がるのを見るともなしに眺める。
「……まずは経験積まないと、かぁ」
道のりは、数多の先輩たちを見て知っていたとはいえ、長く多難なものになりそうだった。
「……そんな時間あるかねぇ……」
親は老い、自分も歳をとる。焦りは募り――なぜか眠気になったので、彼女は目をつぶった。
進化しすぎた部屋が気を使って、照明を落とす……。

――やがて不意に闇が去った。
左腕が振動に見舞われている。あわてて身を起こせば腕時計型端末が
『着信』
とホログラムを浮かび上がらせている。その文字の下には、見知った名前。
文化庁に勤めている先輩の名前――津野悟朗という――だった。
「音声のみ」
起きぬけの頭で今の自分の顔が見せられるモノではないと判断してホログラムに命じると、ホログラムはイコライザーを模した画面に変化した。
『お、なんだ? 声だけ?』
男の声に反応してグラデーションの棒が伸び縮みする。彼女はベッドの上に正座した。無意識に髪へ手をやれば、乱れているのがよくわかった。
「まず名乗ってくださいよ、先輩……。何か御用ですか?」
『ん? あれ、なんかトーンがぼやけてるな……』
「寝起きなんです」
おーそうかーと明るい男の声が響く。その間に彼女は腕時計を外して枕元に置いた。端末が察して彼女の目の高さへホログラムを展開する。
『お前准教授の公募、面接まで行ったんだってー?』
「よく知ってますね……まあダメでしたけど」
『そりゃそうだろ、お前より実績ある人わんさかいるしなー。つーか学位とれたてで応募するとか無謀だろ』
「……自覚してますから傷口に塩を塗りこまないでください。……書面上の応募規定は修士号取得済み、博士課程在籍経験以上だけだったんですから」
書面と内実は異なることがある。それを身にしみて思い知ったばかりなのだ。ホログラムの向こうで、静かな笑い声がした。それは男がどんな顔をしていいかわからないときによくあげる声だった。
『おー、そりゃ悪かった。まあ、俺はお前のそういうチャレンジ精神好きだけどな』
「はあ」
励まされているのか、なんなのか。よくわからず彼女は息を吐き出す。
「それで、何の御用です」
『あーそうそう、お前来期講義受け持つの?』
「ええ、まあ。ウチで1つ、ですね」
『そうか。んー……』
先ほどまでと比べて、電話の相手のトーンはやや低い。不思議に思って彼女は問う。
「どうかしたんですか?」
『いや、ねぇ。』
間が一瞬。
『……お前空いてる時間ウチで働かない?』
そして、いやに真面目な口調で相手が切りだした。彼女は首をかしげた。
「え、文化庁で、ですか」
『うん。当面は臨時職員扱いになるだろうけど、社保完備、交通費全額支給。どうよ』
「……ありがたいお話ですけど、一体何の仕事で……?」
『いや、うん。まー……俺を助けると思ってさ、面接だけでも受けてみてくれない?』
「でも、あの……だから……内容を」
『一年勤めてくれれば退職金も出る!』
「えっ?! 臨時職員なのに?!」
臨時職員に退職金、という大変珍しい組み合わせを出されて彼女は思わず詳細を聞くのを後回しにし、結局丸めこまれて面接を受けることになったのだが――これがこれから始まる非日常の始まりだったのだと彼女は後々思い知ることになるのだった。

[初出]2015年2月25日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=4962316)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日