『訓練終了――』
グラスにそう表示され、転送装置に何かが現れる音がした。
雫石は椅子の上で起き上り、ため息をついてグラスを外した。
大きく息を吸い、吐き出す。頭を振ると、長い髪がさわさわとボディスーツと触れあうのが自分でもわかった。
コツ、と靴音がしてそちらを見やれば、武装を解いてスーツ姿だけで顕現した彼女の近侍、今のところ唯一の刀がいる。燭台切光忠――長船派と称される刀工の流派の実質的な祖とされる光忠という人物が打った、燭台切という号をもつ刀という意味だ――である。人の姿を纏っているのは、太刀に宿る付喪神が雫石という人間ととある戦いに関して、現代風に言えば、協定を結んだからである。彼は彼女の僕として戦場に赴くのだ。
「汗、ひどいね」
燭台切が黒い手袋に包まれた手を伸ばし、雫石の額に張り付いた髪に触れる。
僕、といいつつ雫石と燭台切が作る関係はいまのところひどくフラットだ。
「――ごめん、またサポートさせちゃった」
「いや? 戦は僕の本領だからね」
今二人は実戦の前の訓練をしている。
実戦には、最低でも六振は刀がほしい――というのが、彼らの雇い主たる政府筋の公式な見解らしい。
『二人ともお疲れさん』
声が降ってくる。隣のモニタリング・ルームにいるオペレーション・リーダーの津野だ。
『雫石、かなり順応してきてるな。燭台切、動きは悪くないんだが、やはり一人だと辛いか』
その言葉に二人は顔を見合わせて苦笑するしかない。
『ま、ともかく、審神者と刀剣男士一人だけでよくやってるよ。お前らと相性が良さそうなヤツを今選定してるところだから、もうちょっと待ってくれな』
「はーい」
と二人は同じく返事をした。
『んじゃ、明日は休みだな。気をつけて帰れよ』
ふつりとマイクが切れる音がした。雫石が立ち上がるために肘かけに手を置くと、すっとまた黒い手袋に包まれた手が差し出された。
「――ありがとう」
さすがに数日がたち、雫石は燭台切のその紳士然とした優しさにも慣れ始めていた。

シャワーを浴び、着替え、ポッドに乗って本丸――という名の官舎――へ向かう車中、雫石は自然とあくびをしてしまっていた。
口を塞ぎつつも、はふ、と慌てて噛み殺せば、向かい合った燭台切が笑った。
「お疲れ様」
「比較的体力ある方だと思うんだけどね」
研究者たるもの、椅子に座り続けている体力はまず基本だ。そして論文作成にはそれ以上の体力が求められる。さらに彼女の場合、研究の現地に赴けば今は荒れ野となっている山城があるなど、体力はあるにこしたことのない状況に囲まれているのだ。
雫石は伸びをする。それから姿勢を戻すと、目の前の“相棒”に聞いた。
「あなたは大丈夫? 人間の体は慣れた?」
「まあ、なんとか。ヒトの行動の理由もわかった感じかな。肉体がないころには僕にはよくわからないこともあったから」
言いながら彼は手袋に包まれた手を握ったり開いたりしてみせる。
「“肉体を纏う前”はヒトの形じゃなかったの?」
ヒトの形で、動きだけトレースしたりはしなかったのだろうか。そう思って聞くと、燭台切はちょっと眉を寄せて考えたようだった。
「うーん。……所謂霊体だからね。“視える人”によってはヒトの形だったり人魂みたいだったりするみたいだね」
「“視える人”……。やっぱりそういう人がいるのね」
「うん、いるよ」
あっさりと肯定して、燭台切は手を組む。指が長く掌とのバランスが良いから美しい形になるんだ、と雫石は思った。
「“見える”だけの人もいれば、僕らと交流できる人もいる。どうしてそういう差が出るのかはわからないけど、ともかくいるんだ」
「……科学が解き明かすべき領域がどっと増えそうね」
「平和になったら、かな。いまは僕たちと敵方の彼らしか知らないままにしておきたいだろうから」
「それもそうね」
彼ら付喪神――とくにこの戦いに協力する付喪神を刀剣男士という――の実在性は何百年も続いた“霊”だの“神”だの不可視の存在に一石を投じることにはなりそうだが、今はそれを世間に投じるわけにはいかない。それを知る“僕ら”――政府――と“敵方の彼ら”――歴史修正主義者という名のテロリスト――は見えない戦争を繰り広げているのだ。
そこに一般のマスコミや人々の好奇の目が加われば混乱は必定だ。だからこそ、彼らの存在の新しすぎる事実は今のところ世間に秘されている。
「明日は休み、か」
雫石が起こるかもしれない混乱というものに予測に妄想を混ぜながら車窓に乗せて思いを馳せていると、ふと燭台切が言った。
「“休み”っていうのは、どうすればいいのかな?」
そういえば“休み”という一日の過ごし方を彼は初めて体験するのだ、と雫石はその言葉で思い至った。
「好きなことして過ごしていいのよ。趣味とか――」
「趣味?」
「本を読んだり、映画を見たり。あと、趣味とは違うけど溜まった家事を片付けたり。決まったことはないの」
「そうなんだ。……君はどうするの?」
小首をかしげて聞いてくる燭台切に雫石は笑う。一般の女性職員曰く鋭い印象がありカッコイイとされる彼なのに、選ぶ言葉はひどく柔らかく仕草も優しい。この小首をかしげる動作も可愛らしいものがあり、ギャップを感じてしまうのだ。
「私は馴染みの古本屋さんに頼んでいたものが届いたって連絡があったから取りに行こうかと」
「そう。……僕も行こうか?」
「うーん。……ずっと私に付きっきりだったから、一人で過ごしてみたら? 庭を散歩してもいいだろうし。気分転換してみて? 好きなこと探し、でもいいだろうし」
「そっか。……護衛はいいのかな?」
歴史修正主義者はテロリストだ。現代においては、刀剣男士は審神者の護衛も務めている。それを思い出して、雫石は少し首を傾けた。
「私――私たちは本格的な出陣前だし、大丈夫だと思うわ。今のところ、敵方がこちらの審神者を調べているわけではないようだし」
「何かあったらすぐに呼んでね。飛んでいく」
燭台切は真面目な顔をして少し身を乗り出し、そう言った。雫石はその言葉に虚をつかれたような気分になり、目をパチクリさせた。豆鉄砲を食らった鳩のような表情にもなる。
「ありがとう。今、なんか少し嬉しかったかも、お役目だとしてもね」
――この歳になると、あからさまに心配してくれる人なんて滅多にいなくなるから、と付け足しながら笑うと、燭台切は少し不思議そうな顔をした。
「お役目じゃなくても、僕は心配するよ? ――君は僕の大切な人だ」
心底不思議そうなその言葉に雫石はありがとうと答えた。
――大切な人ってのは、きっと主だからって意味ね。

ポッドは敷地の入口に到着する。辺りはもう日が暮れかけていた。冬よりは日が伸びたが、春と喜ぶにはまだ暗い――そんな様子だ。
「今日の夕食なんだけど」
門をくぐり玄関までの道、他愛もない話をしながら進む。
「僕が作ってもいいかな。ひと通りは覚えられたと思うし」
もともと――政宗の影響なのか――料理に興味を持っていた燭台切は、毎食雫石についてその手順を見聞きし時に自分で動いて、ご飯の炊き方や味噌汁の作り方、各種調理器具の使い方などを砂が水を吸い込むように覚えていった。野菜の切り方など、雫石よりすでに上手いくらいだ。
だから雫石は素直に頷いた。
「じゃあ、お願いしてもいい? 冷蔵庫なにがあったかな……」
「鶏肉と野菜がいくつか。レンコンがあったかな」
「覚えてるんだ……」
冷蔵庫の管理も任せられそうだ、と雫石は思った。
「あとは何が食べたい?」
ひょい、と燭台切が覗き込んでくる。屈むようにした燭台切を雫石は見上げる。
「うーん、小鉢が欲しいかなぁ。ポテトサラダ作ろうと思ってたんだよね」
「OK、ポテトサラダだね」
楽しげな声で燭台切は言った。楽しそうなその雰囲気に、雫石もつられるように笑った。

台所に続く食堂――二人だけのいまはがらんとしている場所だ――で雫石は本を読む。紙の本だ。
もしなにか燭台切が対処に困る事態になったら出ていけるようにここにいるのである。
冷蔵庫を開ける音がする。それから――フライパンや鍋を出す音。
そして、足音。
それが近づいてくる。
雫石は思わず振り返った。
「――どうしたの?」
「ちょっとね」
そう言ってネクタイも外したYシャツ姿の燭台切は食堂を出ていった。捲くった袖から見える腕のたくましさにもずいぶん慣れたなぁなどと思っていると、しばらくして戻ってきた彼の手には、砥石。
雫石は首をかしげる。そして台所に戻る燭台切の後を追った。
作業台に少し濡らしたそれを置くと、燭台切は並べてある包丁のうちから一本を取り上げる。
そして、それを砥石に当てる――
「わぁ!!」
その光景に雫石は声をあげて駆け寄り、ぐいと包丁を取り上げた。横合いから刃物を奪われて、さすがに燭台切も仰天したようだった。
「な、なにするんだい?」
「だ、だめ。この包丁セラミックなの。研がなくていいの!」
雫石は一歩下がって包丁を背中に隠す。この包丁はセラミック製――つまり非金属だ。包丁のほかにも幅広い用途に使われている化合物で、義歯にも用いられるものだ。とかく珍しいものではない。
「……異様に軽いと思ったけど、もしかして鉄じゃないよね、それ」
「そう、“セラミック”って、材料のことなの。そして、研がないで」
「え……。でも切れ味悪くなってるよ?」
おそらくは、彼の本性が“刀”であるためだろう。この包丁は金属ではないのでその軽さなどに慣れず、切りにくいのだと思う。さらには長年使っているから、確かにいくらか切れ味は落ちているかもしれないと雫石は思った。
しかし研ぐことを許すわけにはいかなかった。なぜならセラミックの最大の欠点ともいえるのが、通常の砥石では研ぐことができないということなのである。
「とにかく、研がないで」
雫石は背中からふたたび体の前に包丁を戻した。あぶないから気をつけて、と燭台切は言う。
「ともかく、その砥石じゃ研げないものなの。それから、お肉も魚も斬らないで。……これ、野菜専用なの」
「……」
「そしてお肉はそっち……ステンレス」
雫石は作業台に並んだ包丁のうち一本を指差した。というか、残りのペティナイフもパン切り包丁も――ステンレスだ。
「なるほど、それで使い分けていて野菜とか切る時はそっちを貸してくれてたんだね……うーん」
雫石の手元のセラミック包丁と作業台のステンレス包丁を見比べて、燭台切は渋い顔をした。
「……どっちも切れ味とかなにかしらイマイチだよね? 鉄、というか鋼の包丁はないの? 本焼とは言わないまでも、合わせでもいいんだけど……」
本焼とは鋼一枚で仕上げた包丁で、合わせとは鋼と軟鉄を組み合わせた包丁だ。どちらも今となってはプロが使用するもので、素人はほとんど手を出さない。
実はセラミックもステンレスもどちらも雫石が以前住んでいたアパートから持ってきたものなのだ。更に言うと、これらは大学入学のとき親が持たせてくれたものである。勤続10年近い代物なのだ。切れ味がイマイチだとしたら、確実にそのせいだろう。
「ごめん、ない」
言うと、燭台切は残念そうにため息をついた。
「わかった。弘法筆を選ばず――っていうほど数こなしてないけど、コレで作るよ」
言って彼は砥石を遠ざけた。その切り替えと納得の速さに雫石はほっと息をつきつつ、セラミックの包丁を――もちろん柄の方を燭台切に向けて――渡した。


鶏肉と素揚げ野菜のあんかけと雫石が所望したポテトサラダの小鉢という食事を終え、二人は食器を片づける。二人分なので、支給の食洗機を使わず、並んで流しに立つのがこのところの習いになっているのだ。
「……まさかあんかけ料理が出てくるとは」
「ダメだった?」
「ううん、美味しかった! あんかけもダマになってないし、とろみもきちんとついてたし!」
雫石が素直に言うと、燭台切はとても嬉しそうにした。
「今度は洋食やってみたいなぁ」
「楽しみにしてる」
雫石も心から言えば、燭台切はますます満足そうにした。
「――それにしても」
と、燭台切は一瞬表情を暗くした。
「鋼の包丁だったらなぁ。繊維もすぱっと切れるはずだし、やっぱり味変わるんだろうなぁ」
「……」
あんまり残念そうに言うので、雫石は思わず目をそらして茶碗を洗うのに集中した。

その夜、雫石は馴染みの古本屋に明日行くという連絡をしたあと、ふと思い立ってとある単語を二つほど検索サイトに放り込んでみた。
「ふむ」
彼女はそれからいくつかのページを渡り歩き、
「なるほど」
と結論付けると、パソコンの電源を落とし、その日は眠った。

[初出]2015年4月6日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5143632)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日