瞼をすかす光。目を開ければ、燭台切の時と同じように無機質な天井――ではなかった。
――というよりまず、重い。
意識がしっかりしてくると、グラス越しに見えたのは優しい金の瞳。それも片方だけ。
間近に近侍の顔があった。雫石はあげかけた驚きの声をうっかり飲み込んでしまい、むせた。
主の顔の横に手をついて上半身を起こした姿勢をしていた近侍ではあるが、それでも重い男の肉体は薄い女の体にほぼ覆いかぶさっている形であった。
そう、なぜか体の上に燭台切がいたのだ。
『おおーい燭台切、どこで顕現してんだ、お前』
「ごめん!」
オペレーションリーダーの津野の声が呆れたように降ってきてあわてて飛びのくように椅子を降りた近侍に、体を起こした雫石は
――ああ、刀(かれ)を抱いて寝てたんだっけ。
と、大広間へ“行く”前のことをぼんやりと思いだした。
雫石も寝椅子から体を起こす。ひどく疲れていた。
うつむいてこめかみを揉んだところで、新たなる光――と、舞う桜。
刀の転送用装置の上を見れば、そこが光り輝いていた。
「来てくれるのね」
息を吐きつつ言えば、燭台切がまた手を差し出してくれた。それを支えに立ち上がる。
見つめていれば、光と柔らかい色の花弁の中から現れたのは、褐色の肌に金の瞳の青年だった。
彼はまず転送装置の上で無機質な部屋を見回すと、雫石と燭台切に目を当て、そこから降りた。
「……大倶利伽羅だ。相州伝の廣光の手になる」
雫石は大倶利伽羅に歩み寄った。大倶利伽羅がわずか身構えた。雫石は苦笑した。
「……さっきはごめんなさい。燭台切を隠していたのは、攻撃の意図があるからじゃないの。付喪神にも縄張りがあるからって彼が配慮してくれたからなの。こちらが至らなかったわ」
大倶利伽羅は静かに女を見下ろした。
「……ずーずー弁じゃないんだな、あんた」
「え?」
ずーずー弁、とは仙台弁をはじめとする東北弁に対する俗称である。雫石は首をかしげた。
「うん、実家以外ではほぼ標準語かな」
「俺は伊達家に長く在った。……懐かしかった、それだけだ」
雫石の脳裏に、大倶利伽羅の知識がよみがえる。彼が隠すのをやめたからだろうか。
江戸城築城に対する功績の褒美として、政宗の息子たる二代藩主忠宗に贈られたのが彼だ。
「伊達家での最初の主は――貞山公、伊達政宗だ」
「……忠宗公は?」
「確かに受け取ったのは義山公――忠宗様だが、江戸城築城の功は自分のものだ、と貞山公……政宗様が。それと、『相続すればどうせお前のものだからしばらく俺が預かる』と」
「ああ、それで息子から『死ぬまで預かった』のね」
雫石はくすくすと笑う。
「公らしい」
言って笑む女をしばし眺めてから、大倶利伽羅は言った。
「あんたからは伊具の香りがする。それに……公たちや大広間を大事に思ってくれているようだから、下った。……必要以上に慣れ合うつもりもない、群れるつもりもだ。それでいいなら、手を組む」
雫石はひょいと後ろを振り返った。視線は控える燭台切ではなく、その向こうのオペレーションルームに向かう。
津野の声が降ってくる。
『ま、任務を仕事と考えれば慣れ合わなくてもできるわな。仲よくに越したことはねぇけど』
「……」
「とはいえ、実は一緒に暮らすことになるからある程度の協力とかはお願いすることになりそうなんだけど、いいかな」
雫石が正直にいえば、大倶利伽羅はため息をついた。
「一緒に暮らすのなら、義務程度はこなす」
「それでも助かる、かな」
雫石が言って今度こそ燭台切を振り返れば彼は苦笑していた。
「それじゃあ、一緒に戦ってくれるってことでいいかな」
「ああ」
雫石はそれをうけて、そっと手を差し出した。
「私は雫石都子。政宗公の初陣の地で育ったの。よろしくね、大倶利伽羅」
大倶利伽羅は、燭台切のものとはまた違う手袋に包まれた手でその手を握り返した。

その後、雫石は接触中に急激に血圧が上がったり下がったりしていたらしく――彼女に心当たりはあった――亘理に別室に呼ばれた。おそらくメディカルチェックを受けるのだろう。
「燭台くん、大倶利伽羅くんにいろいろ教えてあげてね」
亘理はそう言ってウィンクした。燭台切は笑いながら受けて、大倶利伽羅を別室へ連れて行った。そこは、訓練のための病院に移されるまでの間、待機する場所であった。
「本丸で僕らと合流する前に、病院でいろいろ慣らすんだよ」
そう言う燭台切に大倶利伽羅は鋭い視線を投げている。
「どうしたの? もしかしてまだ怒ってるのかな? それなら謝るよ、ごめん」
「お前……本当に光忠か」
だが返ってきたのは謝罪に関する事ではなかった。燭台切は首をかしげて、腕を広げた。
「まあ、伊達にいたころと装いは変わってるけど――僕は燭台切光忠だよ」
大倶利伽羅が眉をしかめた。
「……装いの変化のことなら俺もあまり変わりはない。……だがその眼帯はなんだ、見えているんだろう」
「あ、これ?」
燭台切はことさら明るく言って、こつこつと指差で眼帯をつついた。
「ケン・ワタナベの『独眼竜政宗』の政宗公はカッコよかったよね! だから真似してみたんだ!」
「……」
20世紀の大河ドラマ――伊達政宗を主人公にしたそれでは、役者は私室や奥におけるシーンでは半眼のメイクをし、戦闘シーンや政治のシーンでは眼帯をしていた。撮影の裏話にはその眼帯にはちょっとした細工がしてあり、じつは内側からは見えていた、というものがある。燭台切はカッコよかったからそれを真似たのだ、と言ったのだ。
大倶利伽羅は怪訝な顔をした。
「……目の周りはどうなんだ」
「え?」
「目が見えているのは気配でわかる。だが目の周りはわからないな。無事なのか」
その言葉に燭台切は顎を引いた。
「……お前は火事にあった、行方不明だと聞いていた。だが先ほど交えたお前の本体はどうも無事そうだ。顕現したお前も五体は満足そうだ……何があった」
「……失せ物出てきた、ってやつだよ。だからいろいろ無事なんだよ」
燭台切は静かにそう言った。大倶利伽羅はじっと燭台切を見つめた後――
「そういうことにしておく」
とだけ言った。
「――じゃあ納得してくれたところで」
それを苦笑で受けて、燭台切は説明を再開した。
「病院ではいろいろな常識と、体の使い方を教えてもらうんだ。大事なのは、寝ることと、食べること。食事はね、最初は御粥で味気ないんだけど、本丸に来たら――」
「……粥?」
大倶利伽羅の目が見開かれた。燭台切はキョトンとする。
「……粥が食べられるのか、俺も」
「うん、……どうしたの」
燭台切が聞けば、彼より明るい金の瞳がどこか遠くを見た。
「斉邦公が……召し上がっていた。凶作に苦しむ民を憂いて日に三度、三菜は御控えになり、茶粥のみを」
斉邦公とは――天保のころの三賢君の御一人だ、と燭台切は気づいた。
天保時代の江戸城で、賢君として評判になった三人の藩主がいた。
一人は津山藩の第8代藩主、松平斉民。藩の財政再建や教育普及に尽力した人物で、誠実な人柄として知られたという。第13代将軍の家茂の後継問題が持ち上がった時に――選ばれはしなかったものの――将軍候補になったという話も伝わっている。
一人は水戸藩第9代藩主、徳川斉昭。最後の将軍である15代将軍徳川慶喜の実父にして、幕府に助言もし、藩内の改革にも成功した名君ではあるが――と燭台切は彼の人柄を思い出してわずか眉をひそめた。
そして最後の一人が、仙台藩第12代藩主、伊達斉邦。年若くして一門格から養子として藩主になった彼は、聡明で思いやり深い人物であった、という。飢饉にあえぐ領民を思い、自らの食事を茶粥のみにして家臣たちを感嘆させ――同時に、実父は彼の体をとても心配したという――前者二人と同様、身分にこだわりなく意見を取り上げるなど、藩の財政再建や改革に尽力した。だが年若い藩主に天は味方しなかった。冷害と凶作はほぼ一年おきにやってきて、民と藩とを追い詰めた。そして斉邦はついに力尽き……25歳という、三賢君と呼ばれた三人の中ではもっとも早く世を去った。
しかし、幕末の動乱を前に世を辞したのは、ある意味で幸福だったのだろうか、と燭台切は思う。
「……大倶利伽羅」
そして、燭台切は問う。
「……斉邦公に、もしせめて三菜を召し上がっていただけるように歴史を変えられるとしたら――君はどうする?」
あるいは斉邦さえ長らえてくれれば幕末の動乱は――そんな話を燭台切は思い出したのだ。
斉邦の死には、若い体に十分な栄養がいきわたらなかったからだ、という説があるのだ。
大倶利伽羅はまっすぐに古い知り合いを見る。
「大広間で――あのひと、いや、主が言っていたのと同じように、俺はヒトの思いを消すような真似はしたくない」
大倶利伽羅は迷いなく答えた。
「斉邦公に三菜をとっていただくのは――あの方の民への思いと藩主としての決意と覚悟を消すことになる」
「……そう、だね」
燭台切の胸に一抹のさみしさと、大きな安堵が広がった。さみしさの正体はなんだろうか、それは惜別の念に似ているような気がした。
「……病院で食べられるのは白粥なんだ。茶粥は、本丸で暮らすことができるようになったら作ってあげるよ。たぶん、主が作り方を知ってるはず」
言うと、燭台切より幾分若い印象のある付喪神はあまり読めない表情のまま、それでもひとつ大きくうなづいて見せた。

帰りはいつも通りポッドである。
「……知り合いだったのね」
また向き合う形で乗り込み、今日の振り返りがどちらからともなくはじまる。
「短い間だけだったけどね、一緒にいたのは」
「だったら、なぜ隠れてるなんて言ったの? 最初から表に出てくれてれば、こじれなかったかもよ?」
「うーん、照れ屋さんだから僕がいたら逆効果だと思ったんだよねぇ。見込み違いだったけど」
「まあ居ても居なくてもこじれた気配はなんとなーくするんだけど」
雫石はため息をついた。
「亘理さんはなんて?」
燭台切が雫石のメディカル・チェックについて切り出すと彼女は「ああ」と言った。
「なんでもない。怒りによる一過性の血圧上昇。年齢の許容範囲内だから大丈夫だって」
「そっか。そういえば、君怒ると訛るんだね」
「やんだごだ、忘れてけろ(やだなぁ、忘れて)」
燭台切は声をあげて笑った。雫石が顔を赤くして頭を抱える。
「なーにもおしょすがることないっちゃ(何も恥ずかしがることないよ)」
笑いながら言った後、燭台切は優しく息を吐きだした。
「それで大倶利伽羅もうっかり油断して君の呪を緩めちゃったみたいだし。終わりよければすべてよし、ってことで」
「遠回りが過ぎたとは思うよ……」
それと、と雫石は言葉を継ぎ足す。
「まとめて怒っちゃってごめんなさい。いろいろ、貴重なもの見せてくれたのに」
「いやそれは……総大将の言うこと聞かなかったり意を汲まなかった僕も悪いし」
「私、もうちょっと威厳をつけようと思います……」
「いやそうじゃなくて……。まあ、威厳はあるにこしたことはないかな」
そこで二人は、盛大にため息をついた。
しばらくの心地よい沈黙。
「燭台切、ほんとうにありがとうね」
「うん?」
「あなたの大切なもの、たくさん見せてくれて。すっごく嬉しかった」
「論文にはできないけど?」
からかう口調でいえば、雫石は肩をすくめた。
「そりゃあそれは惜しいけど。……私、知らないことを知るのが好きだから、楽しかった。本当にありがとう」
三の丸から本丸大広間への小さな小さな旅は、雫石にとっては貴重な体験だったのだ。
改めて礼を言えば、燭台切は苦笑した。応えはない。
また優しい沈黙が降りて――違うのは、ふわ、と燭台切があくびをしたことだ。
「……眠いの?」
「うん、ちょっとね――君があんまり喜んでくれるから、張り切り過ぎたみたいだね」
「寝てもいいよ。起こすし、ポッドにもついたら起こして、って頼めるし」
優しく首をかしげた主に、うーんと近侍は言う。
「主の前で寝るのはどうかなぁ。それに、うたた寝しているところを見られるのは、ちょっとカッコ悪いな」
「そう……」
雫石が受けて、しばらく車窓の景色が流れた。あたりはもはや夜で、流れるのは光の残像だ。
「……ねえ隣にいっていい?」
「え?」
雫石の唐突な問いに燭台切は目を瞬いた。
「眠っていいから。許可します、ってほど偉くないけどね。それに、横に座ったらうたた寝してるところ真っ向見るわけじゃなくなるから、カッコ悪いのも減るでしょ」
「でも」
燭台切が抵抗する間に、雫石は彼の隣りにひょいと移ってきてしまった。
「寄りかかってもいいから。少し休んで」
優しく見上げられて、燭台切は降伏した。
「じゃあ……御言葉に甘えます」
ポッドのごくわずかな揺れはそれでも、眠りに落ちるのには良いものだったらしく、燭台切は顕現してから初めてうたた寝というか居眠りというか、そういう寝方を初めてしたのだった。

だが落ちた眠りの中で見た夢は、彼にとっては苦いものであった。
目の前には、矢絣の着物に袴の、年若い娘。
年若い、そう、その時はそう思ったのだ、きめ細やかな肌は“あの時代”においては二十歳前の娘しかもてないものだった。
黒髪は艶やかで、子を産んだ女ではもてない色をしていた。だから、若いと思った。
真実を知った今では、そうでもないとわかるのだ。
両腕に後生大事に“彼そのもの”を抱えた彼女は、不安に満ちた目で“彼”を見ている。
その顔はまごうことなく彼の主、シズクイシ・ミヤコであった。
そして彼は、肉体をまとわない燭台切光忠は本体を彼女に抱かせて、その前に憤怒の表情で立っている。
スーツなどという洋装ではない。
ざんばら髪に白装束、眼帯はない。
ただ、怒りをもって彼女を見下ろしている。
『お前はどこから来た? なぜあそこに現れた? お前のせいで――』
やめろ、と燭台切は思う。“その時代”を超えて、2205年に肉体を得た彼は。
『どうして僕だけが――』
細かな言葉は覚えていない。だがひたすらに、非のない彼女を責め立てたのを覚えている。
だからこそ、今となってはやめろ、と言える。
――“その時代”、“その場所”で、ミヤコが頼りに出来るのは僕だけだったんだ。
ミヤコがぐっと彼の本体を握りしめる。その不安そうな手を彼は忘れたことはない。
けれど、彼女は決して泣かなかった。
――ああそうか。
燭台切はふと気付いた。
――これは、僕にとっては過去だけれど、君にとっては未来なんだね。
いまだそれは起こっていないのだ、彼女と、“今の彼”には。


「……燭台切、起きれる?」
揺り起こされて、現に戻れば目の前にはいつもの彼女がいた。
「うん……起きれる」
「そう」
少し寝ぼけた声で言えば、返ってくるのは優しい声だった。
「少し休む? それともすぐにご飯にする?」
「うーん、寝ると起きれなさそうかな」
「じゃあご飯ね」
今日はお互い疲れちゃったから出来合いにしようか――という彼女へ少し寝ぼけた燭台切は言った。
「……ミヤコ、この先、君が出会う僕は嫌な奴かもしれない。でも、必ず迎えに行くから、信じて待ってて」
「え……」
雫石が要領の得ない顔をした。それもそうか、と燭台切は思う。
もう出会っているのに、これから出会う、とはわけのわからない――あるいは気味の悪い表現だ。
「ごめん、世迷いごとみたいなものだよ。……でも、胸の隅に置いておいて」
「……よくわからないけど……わかった」
矛盾する二つの言葉を並べて、主は近侍を安心させたようだった。
二人はほどなくポッドを下り、食事を終えてその日は休むと、翌日には大倶利伽羅を迎える準備を始めたのだった。

(了)

[初出]2015年6月29日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5487527)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日