燭台切はその日適度に酔い、様々なひとから農に関するアドバイスや楽しい冗談などを聞かされた後、眠りについた。
……だからだろうか。
彼の眠る意識に流れ込んでくるものがあった。
地の底から、彼の中に流れ込んでくる、記憶。人の、大地の、自然の記憶。遠くに懐かしい馬蹄の音。狭間に聞こえるのは、とてもとても、懐かしい声。しかし記憶の最後にあるよりもっと若い。
――公。
燭台切は付喪の手を伸ばした。しかしそこは深すぎて、届いたのはもっと新しい記憶だった。
声が、色が、形が彼の中に流れ込んでくる。

「やぁい、がり勉!」
びくりと震えた気配に、燭台切は傍らを見下ろした。
そこにいるのは
「ミヤコ……」
雫石だった。しかし、長い髪は今よりも細く艶やかで、背は彼の腰に届くかどうかといったところ。小さな都子がそこにいた。胸に大事そうに本を抱えて、俯いている。
「紙の本なんて、きったねーぞ!!」
「埃だらけ!」
「虫がうじゃうじゃ!」
燭台切ははやし立てる方を見た。悪童、と言った感じの男児が数人。やいのやいのと小さな都子に言葉の礫をぶつけてくる。
燭台切は思わず小さな彼女の前に立ちふさがった。だが誰も――彼のことは見えていないようだった。
そして彼は悟る。
――ああ、僕は夢に昔の出来事を見ているのか。
と。
大地が彼に、彼の主の過去を見せているのだ、と彼は気づいた。
振り返れば、俯いたままの幼い主。燭台切は思わずひざをついた。
彼女が胸元に抱きしめている本には
『学習マンガ 伊達政宗』
とあり、燭台切は思わず笑ってしまった。
もちろん、彼女はそんな彼には気づかない。
「いいもん」
彼女が不意にそう言って、ぐいと顎をあげた。そこには、強い光を宿した瞳があった。
「都子ちゃん」
とそこへ優しい声か響いた。ぱっと彼女が振り返る。その視線の先には、痩身だがしゃんと背筋の伸びた老婦人がいた。
「おっぴさん!」
幼い彼女が駆け寄っていく。燭台切が立ち上がる間に、彼女は曾祖母に抱きついていた。
――今日会った親戚の誰よりも似てる。
と燭台切は驚いた。真っ白な髪は似ても似つかないが、老婦人のその雰囲気は今日会ったどの家族・親戚たちよりも雫石に似ていた。
「ねぇおっぴさん、また政宗公のお話聞かせて!」
とせがむ曾孫に老婦人は笑いかける。
「そうねぇ、じゃあ今日は、政宗公が臼に隠れたお話をしましょうか……」
燭台切は苦笑した。
政宗はその功績と後代の人気のために、民話の中にとけ込み、名もない領主たちを追いやってその話の主役としてでんと居座るようになったのだ。バツの悪い目にあいどこぞに隠れた名のない名主は政宗の衣をまとい、時に悪知恵を働かす小ずるいが味方にすれば頼りがいのある領主は政宗の名と顔になる。彼女の育ったこの地には、そんな話がいくつもあった。
歴史の教師であったという都子の曾祖母がいいかげんな話を教えたとは思われない。子守歌代わりの民話がいつか曾孫によって政宗という衣を取り去られるのは予期していたことだろう。それでも曾祖母はあえて語って聞かせたのだ。藩祖を慕ったこの土地の歴史のかけらとして。

ひとつ風が吹いたような気がして、顔を巡らせれば場面が変わっていた。
場所はあの、櫓。
傍らには、まだ未熟さを残す美しい横顔をした都子がいた。中学生くらいだろうか。その向こうから、ひょいと手摺りの向こうへ腕をつきだしたものがある。見れば、それは昼に会ったあの僧侶だった。だが彼は有髪で、真っ白なシャツを来ていた。あどけなさの残る顔に彼もまだ十代に入ったばかりだろうと知れる。
「あのね、向こうから」
とまだ咲ききらないゆえの美しさを宿す都子が平地の向こうを指さした。
騎馬がやってくる、と燭台切は胸の内で続きを引き取る。
少年の方もそれを察したらしかった。そしてため息をついて手摺りにもたれ掛かった。
「やっぱ、俺にはわかんねーな」
それは優しさを含みつつも幼い残酷さをもって発された言葉だった。
そう、とつぶやいて都子が手を下ろした。燭台切の胸になぜか寂しさが押し寄せ、彼は触れられないとわかっていてもその髪に手を伸ばした。
「それより、俺のうちに行こうぜ。田んぼ見ててもしゃーないし」
といいつつ、少年は櫓の階段を下りていく。都子は
「……後から行く」
とだけ言った。
それから彼女は田んぼの先を眺めてため息をつき、手摺りにおいた手の甲にぐりぐりと額を押しつけた。

夕凪の風に目を細めると、また場面が変わったようだった。
「文学部だと――農学部以外はゆるさん」
その声は怒りと断固とした意志を内包して放たれた。
目の前には都子の祖父。違う名字だというのに、連なる一族に家長権を行使する男がいた。
「でも」
と声を上げたのは、いくらかすらりと成長した都子だった。
その傍らで、父と母はすくみ上がっていた。
「私、歴史がやりたいの」
「食えないものをやるのはゆるさん」
「お父さん、食えないって決めつけるのはよくないわ――」
小さく声を発した母を祖父はひとにらみした。
「勉強には金がかかんだど。誰が出すんだ。道楽ではやらせねぇ」
「道楽じゃない」
と反論した孫娘を祖父は見据えた。
「歴史なんてじじいばばあが見たり読んだりするもんだ。年寄りの道楽だ! おめぇは金ば稼げることしろ。やるんだったら教育学部だ。先生になるって約束すんだら、教育学部は許してやる」
「私、先生になりたいんじゃない。研究がしたいの!」
「研究!」
祖父はますます大声になる。
「たかだか自由研究のレポート誉められて表彰されたからって調子に乗るんじゃねぇど! 仙台の学校なんかいかすから、都子が調子に乗る!」
都子の白い顔に怒りと、目には涙が浮かんだ。
そして彼女は立ち上がると、扉を乱暴に閉めて出て行った。
――ああ、もっと。
と燭台切は思う。苦虫を噛み潰したような顔をした祖父に。
――もっと、君のことを心配してるんだって……言い方、あっただろうに。
それは夕食時に、祖父のことを知ったからこそ思えたことであった。知らなかったのなら、きっと都子と同じく怒りを覚えたことだろう。
そして、俯いて何もいえないでいる両親に彼はふがいなさを覚えた。
さらさらと景色が流れて、また、変わる。
彼はいつの間にか都子の部屋にいた。彼女はベッドに突っ伏して、枕にむかって叫んでいた。
燭台切は触れられぬままに、ベッドにそっと腰掛けた。そこへ、こんこん、とノックの音がした。
「都子ちゃん」
答えられない気配を察したか、ドアが開いた。入ってきたのは、さきほどよりずいぶんと年老いた、彼女の曾祖母だった。
曾祖母は曾孫の姿を見てため息をつくと、部屋の傍らに座っていたぬいぐるみを取り上げた。それは右目に眼帯をし、紫色の陣羽織を羽織った熊のぬいぐるみだった。
「都子ちゃん、都子ちゃん」
と曾祖母は人形劇よろしくぬいぐるみの手で曾孫に触れた。都子は涙に塗れた顔を起こしてそちらをみた。
「まーくんが心配だって」
まーくん、というのは政宗から取った名前に違いないと燭台切は微笑む。
その間に都子はぬいぐるみへ手を伸ばしていた。曾祖母からそれを受け取ると、ぎゅっと抱きしめる。
ベッドに身を起こした曾孫の横に、曾祖母は腰を下ろした。
「都子ちゃん、いいこと教えましょうね。おっぴさんは、じいちゃんのお母さんなの」
と曾祖母はにっこりと笑う。首を傾げた曾孫の目元を優しくおっぴさんはぬぐってやった。
また場面が流れた。
ばつが悪そうに明後日を見ている祖父。その向かいには、怒気をはらんだ顔をした曾祖母。曾祖母の背中には、都子の父母と、祖母が控えていた。
「お義父さん、僕からもお願いします」
と小さく父が声を上げた。
「んだども」
「おめぇはまた!」
と曾祖母が声を荒げると、祖父が小さくなった。
「おめだって学部卒でいいっていってんのにワガママ通して大学院さいったべ! なにやじぶんばっかし、都子のこといじめんのか!」
「孫ばいじめるじじいばどこさいる!」
「目の前にいるべ!」
ぐう、と祖父が息をのんだ。それから息を吐き出し、言う。
「……国立は農学部。それは譲らんね」
ほっと父母が息をついた。そこへ間髪いれず曾祖母は言った。
「国立落ちたら浪人なし、滑り止めには時子の言うように、文学部でもいいね」
祖父はしぶしぶ頷いた。それに父母と祖母がほっと息をつき、曽祖母はにっこりと笑った。
それから曽祖母は扉にむかって「都子ちゃん」と声をかけた。ひょっこりと顔を出した都子の顔が、曽祖母の笑顔を見て不安から安堵へと変わっていく……。
また、さあっと景色が流れていった。今度は桜吹雪を伴って。
明るい空の下、また都子がいた。顔立ちはさらに大人び、現在に近づいているがまだ幼さが残っている。
ふと、燭台切は気づいた。
彼女が喪服姿であることに。
手には骨壺を持っている。
それから彼女は桜舞う空を見上げている。
「……おっぴさんがいないなら……」
と風の中で彼女は言った。
「私、帰ってくる理由、なくなっちゃった……」
骨壺は曾祖母のものらしい。
燭台切は不安にかられて手を伸ばした。
――ここは君の故郷だけど。
喪服の肩にもう少しで触れる。
――ここは大事な場所だけど。
燭台切は思う。一緒にまわった数々の遺跡。きっとそれは彼女の原点で、宝物だ。けれど。
――君、ここでひとりぼっちだったの?
喪服の肩を手がすり抜けた。
直後、嘲笑。
「やーいやーい」
「紙の本、きったねぇの!」
「変な奴! 変な奴!」
「墓なんか見に行ってきっもちわりぃ!」
続くのは呆れた苦笑。
「いや、お前はせっかくかわいいんだし、もっと女の子らしいもの好きになったら?」
「成績いいのはいいけどね……もっと視野を広げなさい」
「俺、お前が何考えてるのかわかんないや」
怒号。
「家の役に立つことをしろ!」
「諦めてくれたら楽なのに」
「変わり者のお姉ちゃんもってこっちだって大変なんだよ!」
燭台切は驚いて辺りを見回した。声はあちこちから降って、沸いてくる。あらゆる馴染みのある声で。
そして見れば、小さな都子が頭を抱えて地面にうずくまっていた。
男は反射的に手を伸ばした。
――都子!

ばっと燭台切は飛び起きた。
あわてて辺りを見回せば、そこはあてがわれた客間だった。
荒い息に驚く。あれは悪夢というのだろうか。
――いや。
燭台切は落ちてくる前髪をかきあげた。
――僕の悪夢じゃない。
そう思った直後、玄関のドアがひそかに開いて閉まる音を燭台切は聞いた。そして彼は寝間着代わりのジャージ姿のまま、その音の後を追った。

水田に水がはってあるせいだろうか。
蛙の声にあたりは満ちている。
東の空は白みかけて、もはや朝と言っていい頃だろう。燭台切は主の気配を追った。
田んぼへ続くあぜ道の途中に、彼女はいた。
「――ミヤコ」
と呼べば長い髪がそよいで、彼女が振り返った。胸の中には、まーくん、と呼ばれた眼帯のくまがおさまっている。
「……ごめん、起こした?」
「いいや」
そう言ってから、燭台切は少しかがんでまーくんのふかふかした手をとった。
「おはよう、はじめまして」
と、挨拶すれば、都子――雫石は苦笑する。
「この子の眼帯と陣羽織、おっぴさんが作ってくれたの」
「へぇ」
「名前はまーくん」
燭台切は知ってるよ、とも、由来は公だね、とも言わなかった。ただ優しく手を放す。
「東京に出るとき、大人にならなきゃって思って置いていったの」
「……うん」
付喪神の気配はもちろんまだない――だが、素質はありそうだ、と燭台切は思った。まーくんはひどく優しい瞳をしている。
「散歩なら、僕にも声かけてくれればいいのに」
「……、夢を見たの。あんまり、いい夢じゃなくてね」
雫石はぎゅっとまーくんを抱きしめた。
「……どんな夢だったの?」
きっと、彼が先ほど見た夢は彼女のものが流れ込んできたものだろう――そう思いつつもそう聞くと、彼女はうーん、と言った後、白む空を見上げた。
「……昔の夢。東京に出る前の、ここには私の味方はおっぴさんしかいなくて、孤独だって思いこんでた頃の、かっこわるい夢」
燭台切は少しばかり驚いた。
「……今は違うと思うの?」
「うん」
と彼女は淀みなく言い、東の空へ目をやった。
「妹とはよく喧嘩したし、親は成績は誉めてくれたけどじいちゃんとぶつかる度に面倒くさそうだったし。同級生には変わり者だって、よく笑われてた。……じいちゃんは、私のやりたいこと認めてくれなかったし」
そこで雫石はまーくんをふたたびぎゅっと抱きしめた。
「でもそれは、愛してないってことの証拠ではないんだよね。姉妹の喧嘩なんてよくあることだし、両親だって人間だもの、腹立たしい瞬間はあるよね。……じいちゃんは、私の将来を案じてくれてた」
「……気づいてたの?」
夕暮れの縁側を思い出して言えば、雫石は苦笑した。
「気づいたのは、ついこの間なの。……博士号論文書き終わったよ、って電話したら、お母さんがじいちゃんに電話代わってさ。……書き終わったのか、がんばったんだな、って……それだけ」
「……でも、わかったんだ」
「うん。家を継げば、最悪自分で田畑やって、食うには困らないしね。おじいちゃんだって私だって、あのころここまでやり遂げられるなんて知らなかったし。私は私の未来を信じてて、おじいちゃんは私の未来を案じてた。でもわたしが、未来の入り口をきちんと見せたから、おじいちゃんも何か認めてくれたんだと思う」
それと、と雫石は苦笑した。
「ひとりぼっちで暮らす日々が、一番教えてくれたかな」
ああ、と燭台切は目を細める。
――彼女は聡い。
と。若さ故の孤独感に埋没することなく、自らの力を信じ前進し、そして振り返り、自省する。それを成した彼女はまた進むのだろう。
「大人になったんだね」
と燭台切が言えば、また苦笑。
「ごく最近、やっとね」
その彼女に燭台切は問う。
「……ここは、君にとってどんなところかな」
彼女は少し目を丸くした。
「ここ?」
「伊具の地は」
――私、帰ってくる理由、なくなっちゃった……。
そう言った、喪服の彼女。最大の理解者を喪ったばかりの少女が言った言葉だ。寂しそうな彼女の顔が脳裏から離れないのだ。
だが目の前の彼女は、打って変わって微笑む。少し恥ずかしげに。
「私にとって、ここは原点で――故郷、かな」
「そっか」
よかった、との言葉は紡がないでおく。
彼女を政宗と結びつけたこの地の思い出が、その良き縁と異なり、彼女にとって嫌なものばかりであったらどうしようか――と彼は思っていたのだ。
そのわだかまりは彼女の中ですでに氷解していたらしい。
「一人暮らしをするとわかることがある、ってよく言われるの。私もそのパターン」
と彼女は苦笑してみせる。
「ただ、じいちゃんとはまだ上手く話せないんだけどね」
「……僕はおじいさんは君のこと、とっても思っていると思うなぁ」
「……わかってはいるんだけどね」
あ、そうだ、と燭台切はぽんと手をたたいた。
「おじいさん、僕が都子の生活を手助けしますっていったら、いくらか安心したようだったよ。びっくりもしてたけど」
「……生活を助ける?」
雫石はしばし首を傾げ、やがて眉を寄せた。
「ごめん、それどういうこと――」
「えーっと、僕が都子を食べさせられればいくらか楽なんじゃないか、みたいなこと言われたから、それなら可能ですって」
入り口をひとつにして出口をひとつ、と祖父の言葉を繰り返せば、雫石はしばしぽかんとした後、ぎゅぅぅぅとまーくんを抱きしめた。
「待って、あなたが私を食べさせるって言ったの」
「うん」
「正確にはじいちゃん、なんて言った?」
「お前が都子を食わせるってならいいけど、って」
「……それで、家計をひとつにするって?」
「そう言う意味だよね、それなら今の生活とかわらないかなって――」
雫石がうめき声をあげた。直後、頭を抱える。
「ミヤコ、大丈夫――?」
「お馬鹿!」
心配して伸ばした手が、その言葉にピタリと止まる。雫石はまーくんを片腕に抱えつつ、手をパタパタと動かした。
「食べさせる、っていうのは、単にそう言う意味じゃないの! 男が女を食べさせるっていうのは――嫁にもらう、っていう意味よ!」
燭台切はしばし硬直した。
朝日が来るのか、雫石の顔と耳が朱に染まっている。
ばか、ばか、と繰り返し言われて燭台切はやっと昨晩のやりとりを正しく飲み込んだ。
「じいちゃん絶対勘違いしたわよ!」
「……」
「もー、どうするの!」
雫石はしばしそこでぐるぐると円を描くように歩き、やがてピタリと立ち止まって彼をみた。
「帰るよ!」
と言うが早いか彼女はずんずんとあぜ道を戻って行ってしまった。
その背中を見送りつつ、燭台切は口元を覆った。
――嫁にもらう、僕が都子を。
口元に登ってくるものが笑いか焦燥かさっぱりわからず、燭台切はそれをむりやり押さえ込むと雫石の後を追った。

昼過ぎ、都子と佐智子の姉妹と、熊谷と燭台切は実家を出発し、仙台に向かうことになった。
新米を秋に確保できるだけの手伝いは終わったらしい。
「気をつけるのよ」
と見送りに出てきた母がいう。父はあいかわらず柔和な表情をしている。
「くまさんの運転なら安全だな」
「高速乗っちゃえば仙台まで自動運転ですし」
と近い将来家族になる父と男が笑う。
その景色を眺めていると、そっと燭台切に雫石が耳打ちしてきた。
「……じいちゃんには、あなたがなんか意味も分からず変なことを言ったみたい、って言ってきたから」
「……おじいさん、なんて?」
「ほぉかぁ、って変な顔してたけど」
「そう……」
「……ついでに、いつもお米ありがとうって言ってきた」
最後にぽつんとそう言った後、ツンとすますようにした雫石に燭台切はそっと笑んだ。彼女と祖父のわだかまりは徐々に解けていくだろうか。そう願いたい、と彼は思う。
それから、隣に腰掛けた雫石の膝の上に気づく。
「大人になったから、まーくん連れて行くんだね」
「……だめかな」
「ううん、いいと思う」
愛してくれる人のそばにあれることは、物の喜びだ。
燭台切は言葉にしなかったが、彼女には伝わったのか、ひざの上のぬいぐるみへ雫石は優しい視線をおとした。
助手席に座った佐智子が、おねぇちゃんほんとまーくん好きねぇ、とからかうような声を出した。
そこへ、家族とは少し異なる声。
「……トランクにおみやげ乗せといたぞ。野菜と、漬け物」
それは従弟の竜太郎だった。
「ありがとう、仙台着いたら分けるね」
と、燭台切側の窓の向こうにいる竜太郎に体を向けつつ雫石は言った。
うん、と頷いた竜太郎が、雫石が背もたれに背中をつけるようにすると、ふいにぐいと窓の中に首を突っ込んできた。
間近にきた顔に燭台切は面食らう。
下から睨みつけるような視線に燭台切が愛想笑いと苦笑の中間のようなものをむけると、ぼそりと竜太郎が言った。
「都子、泣かせたら承知しねーからな」
燭台切はゆっくりとその言葉を咀嚼し、そして笑った。
「最善をつくすよ」
その言葉に竜太郎は唇を引き結んで彼を一睨みしたあと、車体から離れた。
「なに、あれ」
と雫石が平たく言った。
「それじゃあ、シートベルトしめて。出発するよ」
と熊谷が言うと、車も同じ事を繰り返し音声にした。
エンジンが始動する。
家族が、家が遠ざかる。
その景色と後ろに向かって手を振る姉妹を燭台切は灯り色の瞳へやきつけるようにした。

(了)

[初出]2017年1月30日