控室を出て、エレベーターに乗せられる。乗り込むと津野は地下階のボタンを押した。
5,4,3……と、表示がカウントダウンしていく。
「……歴史修正主義はわかるか」
ふいに、津野がそう言った。妙なことを聞く、と思いつつも彼女は脳の襞から説明文を引っ張り出す。……それは歴史学を修めたものならば、知っておくべき単語であった。
「……、通説と異なる史料が出現した場合、適切な史料批判を行ったうえで、前後の出来ごととの統合性を検討し、妥当であれば通説と異なる歴史解釈の可能性を提示し、論議する。客観的科学的観点から妥当と認められれば、通説の書き換えが行われる」
「それは歴史学における修正主義だな。……俗っぽい方はわかるか」
彼女はしばし考え込む。
俗っぽい方、とはつまり、学界とは離れた場所で使われている、異なる意味を持つ同じ言葉のことだ。「俗っぽい方の修正主義」は歴史学が最も避けるべき姿勢である、と学問の門をたたいた者は教え込まれる。
「あるイデオロギーの主張があるものが、史料批判の有無を問わず、自身の主張に合致する都合のよい史料および資料のみを取り上げ、あるいは自分の主張と合致する部分のみを強調し、社会一般に歴史的事実として訴えかけること」
「……そうだ」
津野はひどくまじめな顔になる。
「そういうやつらが今、一派を形成しててな。過去に攻勢をかけてるんだ」
「……過去に攻勢……?」
彼女は首をかしげるしかない。エレベーターは深く深く沈んでいく。
「例えば、土方歳三が函館で死亡しない、織田信長が本能寺で自刃しない、徳川家康が実は江戸時代以前にどこかで死んでいた……とか、そういう歴史改変を奴らは行おうとしているんだ」
「……、どこかで集団で架空戦記を描いて、主張しようとしているということですか?」
津野があげた例は、架空戦記というフィクション物の一群でとても好まれる題材だ。つまり、最も陳腐で一般的なIFの物語――storyである。歴史――historyではありえないものだ。
「それだったらまだ無害なんだがな。限りなく目ざわりではあるが。……やつら、本当に歴史を変えようとしている」
「……は?」
意味のわからない言葉が津野の口から出て、彼女は先輩を見上げた。だが津野の顔はどこまでも――見たことがないほどに、真面目であった。
「……国家、いや国際的なトップシークレットなんだが、人類はタイムマシンの一部実験に成功した」
「…………はあ?!」
意味不明ここに極まれり、とばかりの彼女の声は狭い箱の中でよく響いた。一瞬、音に耳を打たれたか津野は不快そうな顔をした。
「技術的なことは俺はわからん。だが事実だ。一部、というのがミソだな。未来にはいけないし」
「タイムマシーンなんて、大変なことじゃないですか!」
内容的に意味不明であっても言葉としてわかる部分を飲み込んで、彼女はそう言った。
それが事実だとしたら歴史家の仕事内容が変わってしまうかもしれない――そう思って詰めよれば、津野は渋い顔をした。
「だから、トップシークレットなんだよ。……それに俺たちの仕事に影響するほど安定的な技術じゃない。もう一回言うけど、一部成功、つまり部分的な技術なんだ」
「部分的って……どんな? たとえば時間だけ遡れて出る場所は変わらない、とか?」
タイムジャンプはできても、移動はできない――緯度経度の位置を保ったまま、時間だけが遡り、たとえば海を埋め立てた場所でジャンプすると結果海に落ちる……そんなSF小説があったような気がして例示すれば、津野は首を振った。
「そういう物理的な部分じゃないんだ。……精神体しかジャンプできない」
「精神?」
「そうだ。肉体――有機体は残したまま、精神だけジャンプする。見ることはできても、触ることはできない……そんな感じだ」
「……それって、実験したんですよね」
「ああ」
「……被験者が夢を見ていた可能性は?」
「脳波や心電図とかその他もろもろのデータをとらないと思うか?」
「……思いません」
自分とて――一応文系ではあるが、研究者である。歴史学においても客観的な数字データは歓迎される。そもそも歴史学とは「歴史科学」なのだ。史料を用いた「客観的事実」をもって研究を行う――そこには私情や個人的な主義主張、イデオロギーは持ち込んではならない。その姿勢と手法をもって「科学」と称するのだ。
個人的に好ましいと思う歴史上の人物であっても、その感情によって客観的事実を歪め、評価を覆そうとするような努力は行ってはならない――優れた研究者は自らにとって好ましい人物であっても歴史的事実を持ってその人物を断罪することが出来なければならないのだ。社会学的な集積データは結局嘘をつかないから、その手の手法が利用されている研究においては、歴史学はわかりやすく科学である。
それが19世紀以来の歴史学の在りようである。
世にはこのような歴史科学の科学性が理解できない者も多い。それが主に――世俗的な意味での「歴史修正主義者」なのだ。
「でも……タイムマシンが本当にできたとして、それがどうしたんですか?」
彼女はふと陥った物思いから戻ると、津野に聞いた。
物理的な行動ができないのなら一般に広まるのはまだ先で、現状で考えうる一般利用はタイムトラベルが商品化されることくらいか。どちらにしろ一般に供されるのはまだ先のことだろう。今もまだ宇宙旅行が一般に普及したとは言い難い時代なのだ。
一般に利用できない技術なら研究対象になりこそすれ、現状それに何の問題があるのだろう。
「お前、いまタイムマシーンの方に気をとられているだろ。俺、歴史修正主義者が過去に攻勢をかけてる、ってさっき言っただろ。つまりこの二つを合わせると?」
「まさか……」
ガコン、と音を立ててエレベータが止まった。電子表示はB5という文字を表示している。
「そのまさか、でなあ。……タイムマシンの技術が奴らに盗まれちまったんだよ」

扉が開いて、まっすぐに伸びているのは白い廊下だった。
津野が先にそこへ踏み出し、彼女も続く。自動で閉まった扉の向こうで、鉄の箱が上昇する気配がした。
津野は靴音を立てながら廊下を進む。彼女は従うしかない。
「でも、タイムマシンでジャンプできるのが精神体だけなら歴史の主体への干渉は難しいんでは? まして家康を暗殺したり土方歳三を救出したりとかは……」
「人間と異なる精神体をもつ有機体、つまり生物ではない物質なら可能、ということがわかった」
「え?」
「お前、宇宙人、正しくは異星人のメッセージ探索プロジェクトって知ってるか?」
「宇宙にある電磁波とかにメッセージ性や法則性を探すプロジェクトですか?」
「そう。それと同じ事が実は地球内部でも行われていた」
「……イルカとか、クジラとか……?」
「そういう高度な生物じゃなくてな…… “物質”に潜む精神体の抽出に成功したんだ」
「物質……?」
そこで津野が立ち止り、くるりと振り返る。
「有機物、無機物問わず調査した結果、“無機物”にも精神体が存在することが確認された――それも特定の条件を満たしたものだがな」
「無機物? 特定?」
眉を寄せた彼女に津野は指を突き付けた。
「長くこの世にあり続けるモノにいつの間にか宿る精神体――所謂、ツクモガミ、だ」
――付喪神。
音が彼女の脳内で漢字を纏う。そして、ふと津野の専門が民俗学であったこともぼんやりと思いだす。
「まさか、付喪神が科学的に立証されたと?」
「ビンゴ! だ」
明るく勢いのよい男の声に彼女は思わずうなだれた。そして、自らで両頬を軽く叩く。
小気味いい音がして、頬が少しピリリと痛んだ。
「――夢じゃない、ではこれはドッキリですね?」
「言うと思ったわ。ってか俺も似たようなこと言ったしな――タイムマシンのほうで」
「……付喪神にドッキリといわなかったのは民俗学専攻らしいというか」
「そぉかぁ?! オカルトと学問は分けてくれよ」
「いやわけてますけど。感覚的にというか」
――だいたいあなた、漁村の伝統文化が専門だったでしょう。
そう言いかけて、彼女はやめた。
「それで、付喪神がどうしたんですか?」
「付喪神の本体は、生物ではない物質だな。タイムマシンの改良が進んで、精神体だけでなく生命活動のない物質も送りこめるようになった。送り込んだ先で、付喪神は実体化する。奴らに言わせると“肉体を纏う”らしいんだが――仕組みはわからん。これは人間側の技術じゃなくて、付喪神側から提供された“技術”だ。今人間側は仕組みを解明中」
「はあ」
「で、実体化した付喪神はタイムリープ先で行動ができるんだ。つまり対象に対する物理的接触が可能になった」
彼女はこめかみを撫でた。
「ううーん……」
「そして、タイムマシンの技術と同様、付喪神に関する技術も盗まれた」
「え?」
「端的に言う。タイムマシンが出来たが、それでは人間は精神しかタイムリープできない。付喪神が科学的に証明された。モノの精神体である彼らは、人と違ってタイムリープ先に物理的に飛ぶことができ、また肉体を纏うことで行動が可能」
――なんだか腑に落ちない部分があるけど、理論的なことは飛ばそう。
彼女はそう思った。
――レンジだって冷蔵庫だって細かい仕組みはわからないけど、使えるんだし。
とも。
「つまり歴史修正主義者が、タイムマシンとタイムスリップ先で行動できる付喪神を使って、歴史を物理的に変えようとしている?」
「あたり! いやぁ説明長かった〜」
「……長くならざるをえないのはわかりますけど……」
彼女はまたこめかみを撫でる。
「それと、これから私が受けるテストの関係は? 審神者、でしたっけ」
「それな。こっちも付喪神をもって奴らと対抗することになったんだよ。……とは言っても付喪神にもいろんな奴がいる。中には修正主義者たちになびいてしまう可能性がある。そしてなにより、彼らは気に入ったやつらにしか呼び出されない場合もある」
「……」
「そいういう、モロモロの面倒事を引き受けてもらいたいわけだ。その役目を負う者を審神者、という」
彼女はついにため息をついた。
「つまり? 付喪神を呼びだして、管理とか命令とかするのが、審神者、と?」
「ま、そういうことだな。とはいえ、一筋縄ではいかない場合もあるがな」
「?」
「いったろ、精神体だって。……人格があるんだよ」
「……学生の面倒見るようなものだと思えばいいんですかね……」
「それが近いか」
適当な口調でそう言った後、津野は少し先にあるドアを示した。
「あそこでガス圧服に着替えて。それからテストだ」

ガス圧服、とはガスの力を使って体にピッタリと密着させる服である。
いかにも未来的なボディースーツであるが、その密着性から苦手な者も多い。彼女もその一人だった。
「ピッタリしすぎでしょ……」
言いながら、彼女は下腹部を撫でる。
「……痩せよう」
人生何度目かのその単語を呟き終えると、ノックの音がした。聞かれたかとギョッとしつつ応えると、女性の声で「準備ができましたらご案内します」と聞こえた。
彼女はその言葉に思わずあらためて自分の体を見まわす。白いボディースーツはその薄い繊維の下に高度なテクノロジーを仕込んでいることだろう。おそらくは彼女の生体反応を全て記録するような装置だ。
彼女は深呼吸をして、覚悟を決めると
「準備できました!」
と言ってドアを開けた。

[初出]2015年2月25日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=4962316)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日