更衣室でガス圧服――要するにボディスーツだ――に着替える。真っ白なそれは体の線を少し太く見せる。黒はなかったのか、と思いつつ長く落ちる黒髪を纏めようとして、雫石はそのような道具を忘れてきてしまったことに気付く。化粧ポーチはさきほどデスクの引き出しにしまってしまった。
「……バイタルデータに影響はないかな」
あればきっと言われるだろう、と思いなおし、仕上げに電子眼鏡――グラスをつけて終了だ。
ボディスーツはつま先まで覆うものだが、靴と手袋も色をそろえたものが用意されている。靴はヒールのあるものとないもの。ヒールのある方がデザインが好ましく、雫石はそちらを選んだ。手袋にも様々な回路が仕込まれているのだろうと思いながら、丁寧にそれをはめる。
更衣室を一度出て、作業ルームに移る。
あるのは、スーツと同じく電子回路が仕込まれたあの歯医者にあるような椅子と円盤型の転送装置。初日と変わらない。ただ違うのは、椅子の近くに黒い姿――燭台切がすでにいることだ。
「準備できたんだ」
「うん――あなたは?」
「僕は特に何も」
それから燭台切はまじまじと雫石の姿を眺めた。
「それ“はじめて”会った時の服だね」
「そう。これが制服みたいなモノなの」
自分で肩に触れて言えば、燭台切は笑う。
「君を守るものだね」
「うん、そうみたい」
笑みを返せば、そこへ割って入るように声が降ってきた。
『オペレーションリーダー、到着しました』
「オペレーション……」
「リーダー?」
二人が単語を分解して言えば
『俺のことだー!』
と津野の声が降ってきた。直後、モニタリングルームに繋がるドアが開き、津野が現れる。
「間にあったな」
インカムをオフにし、二人に近づいてくる。
「今日は訓練初日。俺から色々説明させてもらう」
言って、津野は椅子の肘かけに触れる。ホログラムパネルが現れて、その上で彼は何やら操作をした。
部屋の壁のひとつがスクリーンとして起動して、部屋の照明が落ちる。白い部屋が暗くなる。
「やれやれ、事情知らない若い看護師のせいで時間食っちまった」
「というと?」
「燭台切が好みだったらしくてなぁ」
ガリガリと頭を掻く津野に燭台切は苦笑で答えた。
――まあ、ねぇ。
ちょっとわかるかも、しかしアグレッシブだなぁと雫石は見ず知らずの看護師に想いを馳せた。
スクリーンの起動動作が終わると、津野は雫石に言う。
「伊達家の公式の歴史書の名前は?」
「『治家記録』のことですか?」
「そう。それ、あと、その元になったような編年体の調査資料みたいなのなかったっけ?」
「『治家記録』の編纂の時に収集した資料をまとめたものなら『引証記』ですけど……。『治家記録』も『引証記』も正式な名前が――」
「ん、ここでは通称とか総称でいい。それとわかるしな、この場合」
そう言いながら津野はインカムに触れた。
「『引証記』および『治家記録』、さらにそこから派生する資料群を樹形図型に展開」
スクリーンが反応して、言われた通りの図を描きだす。
和綴じ本を模した図には書名がついており、『引証記』がトップ、その下に『治家記録』があり、そこからさらに数多くの本の図形が並ぶ。それらは『引証記』と『治家記録』から伸びる線で結ばれており、それぞれについては繋がっていたりいなかったりしている。
「……『引証記』が『治家記録』に対して完全な親子関係を作っているかと言われると、異論があるかと思うんですが――あれは家臣団から提出された資料をまとめたものでもあるので……」
「その辺の専門的なことはまた今度にでもしてくれ。今は視覚効果を優先だ」
雫石が言うと、一瞬『引証記』と『治家記録』の周りに書類を模したアイコンが展開したが、津野の言葉で掻き消える。その挙動に雫石が眉を寄せると、ごく近くで津野ではない気配が苦笑するのが感じられた。
「ここでは『引証記』を史料A、『治家記録』をそこから派生した史料Bとして仮定してきいてくれ。さらに『治家記録』から派生した論文等々は資料群としてまとめて扱う」
津野の声に反応して、スクリーンがA、Bというアルファベットを展開する。
「この時――まあお前の言に従えばもっと遡れるんだろうけど――史料Aをこれ以上遡れない原史料だと――あくまでも、仮定な――する。史料Bは、この場合は厳密には史料Aに対して二次史料に近いものということになるな」
「ええ」
津野が語るのは歴史学の基礎のキの部分だ。学部一年、専門の基礎課程で習う。
史料と資料。音は同じだがまったく異なるものだ。史料とは生の――研究の元になる書物、手紙や出土品などもろもろのモノを指す。そして資料とは、史料をもとに展開された研究や論文などの派生物を指すのだ。
「……歴史修正主義者がこの史料の構成要素の出来事や人物にアタックするとこれらの史料・資料群はどうなると思う?」
津野が一段声を低くした。
「……影響が出る。……記述が変わる、とかですか」
「そうだ」
スクリーンの史料Aのアイコンがゆらゆらと動きだす。
「が、どうも一斉に書き変わるとかそういうものではないらしいことが判明している。まず、影響が出るのが史料A、つまり大本の元の元の原史料になる」
史料Aのアイコンが拡大され、その面に書かれている字の並びがゆらゆらと揺れ出す。
「最初はこんな風に、墨字であればにじむように、活字であれば色が薄くなり出す。そしてだいたい三日から一週間かけて新しい内容が上書きされたり、対象の記述が消えて次の記述が繰り上がったりしてくる」
画面の文字の揺れが収まり字が消えると、ピッと音を立てて次の段落がその場所に詰めてくる。
「そして、段階は次にはいる。史料Aの書き換えが終了すると、そこから派生する史料B、Aに対する重要な二次史料もしくは並列に近い史料に対して変化が生じ始める。端的に言うと、だいたい四日目から八日目にかけてこちらも上書き等々の変化が生じ始める」
史料Aのアイコンが元の大きさに戻り、樹形図上でBのアイコンが揺れ出した。
「……そしてそこからさらに三日から一週間でこちらも上書きが完了する。すると、そこから、資料群、つまり後世の研究書や論文へ影響が出始める。これを繰り返して、最後に歴史の教科書が書き変わるって寸法だ」
教科書というのは学説に基づくものだ。研究の末端の末端にあるものなのだ。であるから、一番最後に影響が出るのだろう、と雫石は思う。
「……これが彼らがやりたいこと?」
ひた、とスクリーンの樹形図を見つめて言えば津野が答えた。
「たぶん、な。見た目的には地味なんだけど、表面的には色々影響がでるわなぁ。気付かないだけかもしれんけど。首都が大阪になったり安土になったり」
「……史料や資料にまず影響が出て、その後現実世界も揺らぎだす?」
「だと思う。今のところなんとか奴らの思惑を食い止めているから、現実では首都はまだトーキョーだな」
「食い止めると、史料も元に?」
「戻る」
津野は力強く言った。雫石はスクリーンから目を離す。
「仕組みはわかりました。……政府は史料の“ゆらぎ”が発生した時代に彼――ええと、刀剣男士をタイムジャンプをさせるんですか?」
「そうだ、審神者をつけて、な」
「……“ゆらぎ”はどうやって発見してるんですか」
この国に史料と資料は膨大にあるはずだ。それをどうやって見つけているというのだろう。
「幸いなことに墨だろうが活版だろうがデジタルだろうが、この国の史料は20世紀以来の努力でほぼデジタル・アーカイブに収まっている。……それらが一点一点常時テキストマイニングにかかってる。史料から資料まで、な」
「……それはいったいどういう事態で」
「超高性能最先端スパコンがアーカイブ見張ってんだ。予算の大部分コレだとよ」
「……それも20世紀以来のテキストマイニング技術の進化のたまもの、ですかね」
「ね」
つまり、人間の脳ひとつや目・耳ふたつでは解決できない問題が、ここ300年ほどの技術進化のおかげで水際で食い止められている、ということなのだ。
「……これ、さっき聞いた刀剣関係資料をアクセス不能にする恣意行為っていうやつとは別なものなんですよね?」
「そう全くの別物。無駄だろ、アレ」
「考えたの文系じゃないでしょ、あっち」
「理系でもない。ていうか文官の発想じゃない。武官だな」
「はあ」
雫石がため息をつくと、津野も息を吐いた。
「で、だ。……実は今まで対応が後手だったんだよ」
「というと?」
「これだと、各種テキストに“ゆらぎ”がでないと出陣――ああ、タイムジャンプのことをそう言うんだ――できないだろ? だからどうしても対応が後手になっちまってな」
「まあそれは、仕方ないですかね」
「それもあるんだが、審神者が歴史に鈍くてな」
「え?」
雫石が首をかしげる。審神者、というのは彼女のようにタイムジャンプする刀剣の付喪神たちを統括する人間のことなのだ。
「お前以前に着任したものは、全員神職関係者でな」
「……刀剣と同じく文化庁管轄の宗教法人関係者、ということで?」
「そーゆーこと。付喪“神”との相性を考慮して呼ばれた、んだけどさ」
そこでちらりと津野は燭台切を見た。スクリーンを感慨深げに眺めていた彼がこちらを向き、にこりと笑う。
「確かに相性はいい。歴史にも高校レベルの知識しかない一般人よりも詳しい。が、やっぱり相手の出方を予測してとかになると、知識が圧倒的に不足してた」
津野は指折り数える。
「たとえば地形の情報。陣形の知識。戦や政治的やりとりの原因・結果だけではなく、間の推移。人的関係。そういうものに対する知識が本職の研究者に比べて圧倒的に不足していて、相手が動かないと動けない、ってことが多くてな。後手後手、ってやつだ。歴史を大きな河に例えた話があると思うが、神職系は大いなる河の流れを知っていても、どこの堰がどんな風に切れたらいくらの水がどのくらいの勢いで暴れるのかは想像もつかない――そんな感じなんだ」
「なるほど」
「一応フォローしておくと、神職の人たちは付喪神――刀剣男士との相性はほんとにいいんだ」
津野は言いながら指を解くと、今度はピシ、と後輩を指差した。
「そんなわけで、後手後手の現状を打開すべく会議で俺から歴史研究者の投入を提案させてもらったんだよ」
「……もしかして、面接で自衛官っぽい人が『架空戦記うんたら』な質問をしてきたのって……」
「ご明察。お前がどれくらい『そういう』予想をつけられるのか見られたわけよ。……史料の中でしか動けない、ってなら現状とそうかわらん、って判断されたかもな」
「……」
雫石は先日の面接を思い出していた。たしかに、なにか学問から外れるような妙な質問をされたのだ。それが今になってようやって合点がいった。
つまり、審神者としての適正をあからさまに計られていたのだ。
「お前が向こうが納得する答えを出してくれたおかげで、俺のメンツは保たれた」
――公務員だからまかりまちがってもクビはなかったんだけどな、と笑う津野に雫石は呆れた。
「でも私、あらゆる時代のあらゆる事柄に精通しているわけじゃ――」
「それなら今までの歴史修正主義者の遡行軍の行動データが集積されてる。データ分析するなら、得意だろ?」
「はあ、まあ……」
歴史家とは結局、データ分析屋でもあるのだ。
雫石はちらりと燭台切を見た。彼は相変わらず柔和な表情をして、自分の審神者(あるじ)とオペレーションリーダーを見守っているようだった。
「――でも、それだったら、外交史として戦を研究している人の方がよかったんじゃ……。架空戦記なんて対象をほとんど戦においてますし、実際改変がくわえやすいのはそこだと思いますよ? ……私は一応政治史とはいえ、どちらかといえばイエの構造とかそういうことですし」
雫石が浮かんだ疑問を口にすれば、津野がふと目をそらした。そらした先には燭台切がいる。しばらく、二人は目線で会話をしているような表情をした。
「……、……燭台切光忠は伊達政宗の刀だ」
「最終的には水戸かと」
「そうなんだけど、僕は政宗公が好きだよ」
久方ぶりに口を開いた燭台切はにこにこと言う。雫石は病院のロビーで津野が言った「刀剣男士の所属意識と人間側の所有権の認識のズレ」をその表情で思い出した。
「……そ。ま、コレの記録を鑑みるに、実戦投入したのは政宗が最後だろうなって話になってな。それだったら、水戸徳川家よりも伊達政宗に親和性がある人間をチョイスしたほうがいいんでないか、ということになり、俺の後輩の中から優秀かつ暇そうなお前をピックアップしたってわけだ」
「暇」
「そうに決まってんだろ。専任講師や助教、准教授以上にこんな仕事頼んだって断られるに決まってる。その点、お前は博士号とれたて、かつ受け持っている講義数も少ない!」
「嬉しいような、哀しいような」
雫石は軽い津野の言説にうなだれるしかない。優秀と言われたのは存外に嬉しいが、暇というのはつまり「お前仕事ないだろう」という意味である。事実であるが、事実であるので痛い。
「君は嫌だった?」
ひょい、と覗き込んできたのは燭台切だった。雫石はその動作に返答が遅れてしまう。
「嫌だってわけじゃなくて――まだ理解があんまりおいついてない、かな。……実感がないというか」
「よかった。……僕は、政宗公のことが話せる人がよかったから。ごめんね」
心底申し訳なさそうな顔をする燭台切に雫石は慌てた。
「ううん。ええと、謝ってほしいとかじゃなくて――なんだろ、ほんとにまだ実感がなくて。……よかったら、また政宗公のこと聞かせてくれる?」
最後だけ少し期待を込めて聞けば、燭台切は目を見開いた後、嬉しそうに笑った。その表情に雫石はいくらかドキリとしつつ、ほっとする。
「もちろん――いくらでも。僕が知ってる範囲まで、になっちゃうけど、いいかな?」
「うん、構わないわ。動いてしゃべる政宗公を知ってる人、ってだけですごいもの」
もう何百年も前に死んだ人なのだ。それを生きて動く存在として知っていて、かつその話を聞けるとは夢にも思わなかった。
――まあその証言は研究に使えないけど。
とはいえ、聞いたところで研究には使えない。付喪神が語った、などと言ったら頭がおかしいのかと言われるのは火を見るよりも明らかだ。
――ここはただの政宗ファンに戻るしかないか。
であるから、雫石は学問に触れる前の自分を思い出すことにした。伊具の農家の、領土の殿さまとして彼を慕う幼い自分を。
「んじゃ、そっちの話がついたところで」
津野が再び言葉を発し、雫石は審神者なるモノに引き戻される。
「一次史料の改変開始から資料の改変終了までをざっと一カ月と見込んで俺たちは行動している。そのタイムラグを利用して、俺たちは歴史の改変作業を阻止、もしくは修正する。同時に、現代においては歴史修正主義者の捕縛および掃討作戦を行ってる。ま、ようするに、俺たちは自衛隊だの警察だのどっかの他国の軍とかが本体叩くまで、やつらの作戦を一つずつ台無しにしていくのが仕事なわけだ」
「……早く叩いてくれるといいですね……」
「まったくだ。それじゃあ、実戦の説明に移ろうか」
津野はそう言って、雫石が今後使用することになる椅子を示した。
雫石が片方の肘かけをあげて座ろうとすると、横合いから黒い手袋に包まれた手が差し出された。戸惑ってそれを見ると
「使って」
と優しい声がした。
「……ありがとう」
雫石はそっとそれに己の白い手袋を嵌めた手を重ねる。燭台切の手がそれを優しく包む。
雫石はそれを支えに、椅子に座った。少し高い位置にあるため、その手助けは助かったが。
――なんか照れるわ。
そっと手を離すと、燭台切が上げた方の肘かけを戻してくれた。
「そのグラス、ツルにも回路が仕込んである」
言いながら津野は自分のこめかみのあたりをトントンと叩いた。
「脳波用ですか?」
「それもある。けど重要なのはもう一つ」
言いながら、津野は円盤型の転送装置に近づいた。そこには太刀の掛台とともに、片手に収まるほどのボールのようなものがあった。津野はそれをひょい、と取り上げて戻ってくる。
「タイムジャンプ後は、コイツがお前の目・耳・口になる。生物はタイムジャンプできないが、こういう物質なら転送できるんだ」
「……カメラとマイクとスピーカー、ということですか?」
「そういうこと。お前はこれを使って向こうに行く。これは拾った情報をお前のグラスに送る。グラスはお前が集中しやすいようにガラス面に情報を展開するだけでなく、ツルを通してお前の脳とも連動する。……ま、要するに考える効率をあげるって感じか」
「なんか……ちょっと、大丈夫なんですか? それ」
「ある程度の安全性はチェックされてる。お前のバイタルデータはモニタリングルームで見てるし、ヤバくなったらこっちで情報切ってお前を引きずり戻す。安心しろ」
「引きずり戻す、って……」
剣呑な言葉である。津野は苦笑した。
「大船に乗ったつもりで、って言えなくて悪いな。とりあえず泥船ではないはずだから」
「はず」
その言葉に雫石はため息をついた。そして、気を取り直す。
「……ま、乗りかかった船ですし」
「俺、お前のそういうとこ好き。よっ、漢前!」
雫石は調子のいい津野に笑うしかない。

[初出]2015年3月21日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5072032)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日