木肌。
雫石はそっとそれに手を伸ばし、触れる。
大きな木の板だ。もはやこの国でこんなものを作ることはあるまい。ましてやこの巨大な板を成せるほどの木があるかどうか。
人の背丈を楽々と超える高さ。そして、ゆうゆうと人の列を受け入れられる広さ。その懐のひろさは、小さな車ならば交互通行が可能だろうか。
見上げれば、ひさし。そして左右三本ずつの太い柱、柱の上部には見事な彫刻。
それは二階建ての巨大門だ。
少し離れて見上げれば、重そうな瓦屋根の上、端の左右に鯱鉾があるのを確認できるだろう。そして、門の左手には漆喰がみごとな脇櫓、右手には見事な石垣と白い漆喰の土塀が続いている。
だが隅櫓と土塀が見事な白を見せているにも関わらず――門の全てはモノクロだ。
――木の色さえ見えない。
柱や扉にあるはずの優しい木肌の色合いは彼女には読みとれず、ただただ黒と灰と白がその姿をかたどっているにすぎない。
そして、不意にその景色に色が着く。
赤、紅、橙――炎の色。
「!」
雫石はあわてて飛び退く。
直後、爆風。
弾き飛ばされて、転がり、顔をあげれば、巨大な門は遥か坂の上。
門からは高々と炎が上がり、暗い空を赤々と燃やす。紅に飲み込まれた白い脇櫓がガラガラと炎の中で崩れていく。
「ま、待って」
雫石は慌てて手を伸ばす。
「待って――」
――どうしてこれを見せるの。
その言葉が喉に張り付く。
『シンクロ率低下、20パーセント、19、17……付喪神の離脱を確認――』

「……大丈夫?」
声に目をあげれば、右目を眼帯で覆った男が覗き込んできている。
その男の頭の後ろには、無機質な白い天井。赤黒い空はない。
「燭台切」
「グラスはずすね」
言いながら、男は甲斐甲斐しく彼女の視界に縁を作っていた電子眼鏡を取り上げた。
雫石は起き上る。当たりは野外ではなく――もちろん坂もなく、いつもの一室だった。無機質な壁に取り囲まれたハイテク部屋だ。
「すごい汗だけど」
言いながら男は黒い手袋を嵌めた指先で彼女の額に張り付いた髪を剥がすようにした。つられるように自分の手でそこへ触れれば、額は汗でべっとりと濡れていた。
「……また見せてきたの」
「……また」
「……1945年だと思う。……昭和20年、7月10日。……深夜」
「仙台空襲か……」
言い当てられて、雫石は近侍の燭台切に頷く。彼はヒトではない。付喪神――とある作戦に協力する付喪神で、特に刀剣男士といわれる存在だ。
「あれ、仙台城の大手門と隅櫓だわ。……でも、色が見えないの」
巨大門の正体を雫石は知っていた。仙台空襲で焼失したそれは、隅櫓と共にかつての国宝であったもの――桃山建築の傑作のひとつとされていたものだ。
素木造りの二階建て。入母屋本造に瓦葺の屋根には鯱がある。禅宗様の火灯窓に、正面の冠木には藩祖が下賜された金の菊と桐の紋。一階部分は正面七間、背面五間に、二階は十間。桁行は六十五尺であった、という。
明治期から焼失までに撮影され、現存するモノクロ写真と残された記録からその偉容は判明している。
後年、隅櫓は復元され雫石もその姿を知っているが、大手門はその規模とその後の交通事情により復元はなされていない。
「隅櫓がきちんと見えて、大手門がモノロクなのは私の知識に接触してきているってことなのかな……」
言いながら、雫石は円盤状の転送装置を見る。そこには、一振の刀。拵と拵から外された刀の本体が白い布をかけらた掛け台の上に鎮座している。
茎に銘はなく、そのかわりその上の辺りから彫刻が施されている。
刃は部屋の照明にこたえて鈍い光を撒いている。
『はい、お疲れさん。二人ともこっち来てくれるか?』
雫石が無言で刀を見つめていると、モニタリングルームからオペーレーションリーダーの津野の声が降ってきた。
「じゃ、行こうか」
燭台切が差し出した手を苦笑しながら取る。彼に手伝われて楽々と立ち上がったところで、その黒い手袋に包まれた手を解放すると、彼女はモニタリングルームへ向かった。

雫石と燭台切がモニタリング・ルームに入るのは初めてだった。9人ほどの人がいる。転送室――雫石がいつも使う部屋だ――との間の壁は一面マジックミラーになっており、中が見えるようになっていた。
「こうなってたんですね。……カメラじゃないんだ」
「カメラだと電源喪失すると状況確認できなくなるんでな」
津野がそう言う。マジックミラーの前には六人。三人ずつのグループに分かれているようだった。
「右が計器とかの状態を見てるエンジニア・チーム。左がお前の状態チェックしてるメディカル・チームだ」
呼ばれて、六人がひょいと振り返ってきた。そしてぺこりとそれぞれに会釈する。雫石も会釈を返した。
「んで、こっちがメディカル・チームリーダーの亘理祥子さん。こっちはエンジニアチームの藤塚数秀さん」
「よろしく」
「……どうも」
亘理と呼ばれた女はいかにも有能な美人といった感じで、にっこりと笑った。赤い口紅が妙に目を引く。ヒールが高いエナメルのパンプス――靴底はきっと赤だ――にタイトスカート、ブラウスとアクセントに少し大きめのイヤリング。漂うできる女の香りに雫石は思わず萎縮してしまった。
藤塚のほうは眼鏡をかけた典型的な技術者といった感じだ。ジーンズにスニーカー。シャツは裾を出している。なぜか、少し顔をそらして燭台切を視界に入れないようにしているようだった。
「いつもお世話になっています」
雫石が手を差し出せば、二人は素直に握手をしてくれた。亘理の方はさらに笑って、燭台切にも手を差し出した。藤塚がギョッとする。
「ああ、燭台切はとって食いはしないですよ、藤塚さん」
「……はい……」
津野の言葉に藤塚は小さく返事をした。見たところ、二人は雫石や津野よりも年上のようだ。
「僕が怖いんだね」
燭台切が屈みこんで雫石に耳打ちする。雫石は彼を見上げて苦笑で返事をした。
エンジニアのリーダーならば理系だろう。付喪神は科学的ではない――少なくとも、まだ存在が一般に公表されておらずその実態も科学的にも解明されていないから――ので、おそらく非科学的で奇妙な存在に見えるのだろう。
――それが普通よね。
と雫石は思う。未知のものに対して「怖い」とは正しい反応なのだ。
津野が円卓に座るように全員を促した。燭台切だけは席につかず、雫石の後ろに控える。
いつもなら座ったら、というところだが、空いている席が自然と藤塚の隣だけになってしまったので雫石はその言葉を仕舞ってしまった。燭台切はおそらくそれを心得ている。
「この付喪神との接触四回目か。またしても失敗」
「すみません」
津野の言葉に雫石が言うと、亘理がトントンと机を指で叩いた。
「津野くん、それじゃ雫石さんが悪いみたいじゃない。接触を断ったののは付喪神でしょ? ねえ藤塚さん」
「はい、データを見る限りシンクロ率の低下は付喪神が原因です」
「亘理さん厳しいっすわ……」
津野はうなだれて見せる。だが、それも一瞬のこと。
「で、お前はどうだ?」
「前にも話したんですけど、仙台城の大手門が見えて。隅櫓以外はモノクロなので、付喪神が私の記憶から大手門を再現してるのかな、とも思うんですけど」
雫石は“見た”ものを話す。
「……でも門の扉は閉まってるんです。私は、大手門が開いてる写真しかみたことないので、そこは“彼”の記憶だと思うんです」
それと、と雫石は付け足す。
「燃えるんです、大手門が――あれはおそらく、仙台空襲かと」
「うーん、コイツの来歴からして第二次世界大戦中に仙台にあった可能性は低いんだが――」
確立としてはほとんど東京なんだが――と、津野が自分の手元にだけある資料を見て言う。
「それでもやっぱり仙台か。俺がコイツにはお前がいい、って思ったのは見立ては間違っていなかったな」
「それはそれとして、ではそれが燃える、あるいは空襲のことを雫石さんにみせているとしたら、付喪神の要求はなんなんでしょう?」
藤塚がわりあい小さな声で言った。
「うーん、大手門を直してほしいのか……しかしそれだと雫石にも俺らの手にも余るなぁ。なんせあれ、資本主義ってもんがこの国に到達する前の代物だからな……。予算とか度外視だし。いま作るとしたら何億だ、あれ」
「何十億が正しいんじゃないかしら。それより私が気になるのは“扉が閉じてる”ってほうね」
亘理が口を挟む。
「扉が閉じている、火があがる――どちらも拒絶の意味じゃないかしら。扉はわかりやすいわね。火は――人にとっても刀にとっても扱いを間違えれば、危険なものよ」
雫石はその言葉にちら、と燭台切をうかがったが――彼は相変わらず泰然としているようだった。
「扉は“入るな”、炎は“近づくな”ってことじゃないかしら」
「それなんか心理学的根拠が?」
「そっちは私の専門じゃないわね。というか、付喪神が“見せてる”ものなら心理学関係ないんじゃないかしら」
亘理は肩をすくめてみせた。津野は頭を掻く。
「見立てはいいと思うんだけどな。拒絶か。……うーんあと何回か接触すれば慣れてくれるのか?」
言いながら、津野が雫石に――正確にはその後ろの燭台切に目を向けた。
「うーん、どうかな?」
燭台切は困ったようにそう返した。

[初出]2015年6月29日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5487527)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日