……翌日。白いボディスーツに着替えて転送室に入ると、雫石は椅子に座る前に刀剣男士のための転送装置に近づいた。その前に膝をつく。そして、持っていた懐紙を咥えると白い手袋に包まれた手を伸ばす。手袋はいつものハイ・テクノロジーを詰め込んだものではなく、美術品管理などに使われるものである。
手を伸ばした先にあるのは、刀の掛台。そしてそこに乗った、剥き身の刀だ。
それを下から支えるように持ちあげる。
手元にそっと引き寄せ、目が奪われるのは、茎から棟にかけての部分。
――綺麗。
そこに彫られた彫刻に雫石はそう思う。
「知恵の利剣に巻き付く竜。……倶利伽羅竜」
声にふり仰げば、近侍がすぐそばに立っていた。
彼が今しがた言ったのは、刀にある彫刻のこと――剣に巻き付く竜、その図案は倶利伽羅竜と呼ばれるものだ。倶利伽羅竜――あるいは倶利伽羅竜王は不動明王の化身だ。魔を断ち行者を守る――これはそんな不動明王が外道と対峙する姿を表していると言われる。仏の智慧たる竜王が外道の智を呑まんとする、そんな場面を写し取ったものだと言う。
「倶利伽羅竜、って言葉は聞こえる?」
雫石が紙を咥えたままこっくりと頷けば、うーん、と燭台切は顎を撫でた。
「やっぱり単語として自分の名前を隠してる、か」
その間に雫石は再び彫刻に目を落とした。
――竜。
現在、政宗は竜に結び付けられてイメージされることがある。とはいえ、政宗の『独眼竜』という綽名は同時代史料中には確認できず、時は進んで江戸時代あたりに、同じく片目が不自由であったとされる後唐の太祖・李克用の綽名になぞらえられてつけられたものではないか、と言われる。
政宗自身がどの程度先の独眼竜である李克用を意識していたかは――同じく黒を基調とした一軍を率いていたことから可能性はあるとしても――不明とされる。
それでも、政宗に、あるいは伊達家に繋がる刀がもつ彫刻としてはこれ以上のものはないのではないだろうか、と雫石は思う。
「そんなに見つめてると、少し妬けちゃうかな」
ふとその声に、戦国時代に馳せていた意識が引き戻される。見上げれば、近侍の男が小首をかしげて見下ろしてきていた。
雫石はなんとなくむずがゆい気持ちになって目をそらすと、そっと刀を絹が掛けられた掛台の上に戻した。それから、懐紙を口から外す。
「妬ける?」
「彼はまだ、君に下ってないからね。近侍としてはちょっと寂しい」
「あ、そういう……」
雫石はなぜかほっと溜息をついてしまった。どうも先日から調子が狂う。先日、というのはこの燭台切にちょっとした贈り物をした日のことだ。
しかし雫石も歳も歳である。このプロジェクトの雲の上にいる魑魅魍魎の者どもほどではないが、博士号を取得できるくらいには歳をくっているから、調子が狂う原因になっているものについて薄々検討をつけていた。
――この男が好ましい、という感情である。
ただ彼女はそれに気付くと、慎重にそれに蓋をした。
燭台切光忠は刀剣男士、つまりは付喪神である。彼は“カミ”なのだ。
カミという呼び名は時に人知を越えるおそるべき存在に与える名だ。国産みの神などには遠くおよばねども、人を越える力を持って善きことを起こす存在をカミと呼んで奉り、悪しきことを起こす存在をカミと呼んで鎮めるのだ。
付喪神はどちらかといえばあやかしに近い分類のカミではあるが、ともかくヒトではないことは確かなのだ。
カミに恋慕など、ロクな結末にならないことを彼女はよく知っていた。それが男のカミならば、なおさらである。異類婚姻譚のうち、婿型は破滅するものが多いのだ。ましてやその異種――異形の存在が獣ではなくカミならば、結末は火を見るよりも明らかだろう。
それでも、妬ける、と言う言葉に少し心臓がはねたのだが、それは先般交わした主従の契りによるものだ、と彼は言った。だから雫石はほっと息をついたのだ。
「? どうしたの?」
「なんでもないわ」
その様子に気付いたのかさらに声をかけてきた燭台切に短くそう言って立ち上がる。
「実は、ちょっと考えていることがあって」
立ち上がった雫石に男はいう。
「悟朗ちゃん達に相談してOKが出たら試してみたいんだけど、どうかな?」
「それは“彼”に関わること?」
「うん。どうかな?」
雫石はうん、と言った。
「私一人では判断できないだろうし、オペレーションルームで聞いてもらいましょう」

「燭台切から提案があるみたいで」
オペレーション・ルームに入ってそう言えば、くるり、と全員の視線がこちらを向く。だが各リーダーのみを残して他のスタッフは自分の仕事にすぐに戻ってしまう。かくして中央のテーブルに残ったのは、雫石と燭台切、津野と亘理に藤塚だった。
「提案っつーと、なんだ?」
口火をきったのは津野だった。燭台切はうん、と言う。
「僕が彼女と“彼”の接触に立ち会おうと思うんですが、どうでしょう?」
「……立ち会う」
三人のリーダーが顔を見合わせる。
「付喪神は、下った後ならともかく、接触時に他の付喪神がいると嫌がるんじゃなかったかしら?」
「一般的には」
「一般的? 彼はどうなの?」
亘理が眉を寄せて言う。美人が凄むと迫力があるなぁと雫石は思った。だが燭台切は怯まない。
「嫌がるでしょうね。性格的には一匹狼めいてるんです。いい子だけど」
「逆効果じゃない」
亘理の言葉に燭台切は苦笑した。
「彼女が交渉の段階に入ったら僕は隠れます。立ち会うと言うより、僕は場を整えて、傍にいる、が正しいかな」
「場を整えるってーと?」
津野が尋ねると、燭台切は手袋に包まれた手を上に向けて腕を広げた。
「正面の門たる大手門を堅く閉ざして彼は城へ彼女を入れないようにしている。ということは城の内部に入ってしまえば不意をつけるかなと。不意を突いて、かつ城の中なら彼も話くらいは聞いてくれるかもしれない」
「おいおいそれ大丈夫なのか? あっちが怒って雫石に攻撃してきたらどうすんだ」
「だから、僕が傍にいるようにするんだよ。主がいれば僕は彼女の気配に隠れることができるからね」
よくわからないな、という声とガリガリと頭を掻く音がした。雫石がそちらに首を回すと、藤塚が苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
――エンジニアさんだから、余計理解しがたいのかも。
先日燭台切が「僕が怖いんだね」と彼を評したのと合わせてそう考えると、雫石はため息をついた。
――よくわからないのはたぶんみんな一緒よねぇ。
とはいえ、それを実際に体験するのは雫石になるのだから、他の三人より気は重い。
「まあ、隠れられるのはわかったけどよ。場を整えるってのはどうやるんだ?」
「僕と“彼”は、わずかな間だけど同じものを見てる。“彼”が単独で大手門を作り出してるんじゃなくて主の記憶に触れて再現しているのなら、僕にも同じ事が出来ると思うんだ。……たぶん付喪神にしても、遠い記憶になりつつあるから彼女の記憶から補強してるんだと思う。彼女は“今”の青葉ヶ崎の地形とかを知ってるからそれに触れて思いだすんだ。僕も同じことをしようと思う。まあ、彼がどのくらい仙台城を大手門の先に作り上げてるかによって整え方も変わるけど」
「ふんふん。で、城に入るってのは?」
「幸い、本丸へのルートは大手門だけじゃないからね」
そこで、燭台切は雫石を見た。雫石はその意図をすぐには図りかねた。
「……もしかして“古い登城ルート”?」
「そう! それだよ! ね、彼と接触した時、子門はあった?」
子門? と三人が声をあげ、雫石は顎をつまんだ。うーん、と記憶を探る。
「五色沼もあったかどうか……気がつくと大手門の目の前だし、周りは隅櫓とかにしか目がいってなかったからなぁ……」
「そっか。じゃあそこは臨機応変にいこう!」
心なしか燭台切の声が弾んでいる気がして、雫石は若干不安になる。そして思わず、オペレーション・リーダーたる津野へ目をやった。後輩兼部下の視線を受けて、津野は眉を寄せたり開いたりする。
「最悪の場合お前が雫石の盾になるってことでいいんだな?」
「うん。彼女は守ってみせるよ」
「……この接触が失敗したら、“彼”が全く接触してこなくなる可能性もあるんじゃ?」
亘理がまっとうなことを口にした。雫石は一瞬ギョッとし、ああそうか、と津野が言う。
「でも、このままじゃ埒があかないんじゃないかなぁ」
そう言ったのは燭台切で、雫石は視線で同意を求められた。
「うーん」
雫石は腕を組む。
「正直、大手門の前に突っ立ってるだけで、接触方法とか説得方法とか全く思い浮かばないし。……“城”に入れば事が動くっていうのならやるしかない、のかな……」
「どうするの、オペレーション・リーダー」
雫石の言葉を受けて亘理が言う。
津野は苛立ったように革靴のつま先で床を叩いた。
「まあ確かに、これ以上計画に遅延が出てもな。……付喪神一柱の協力を得られなくなる可能性もあるが、ダメならダメで雫石に他の刀剣を担ってもらうしかないのは変わりないか。うーん……」
「あとは津野さんの腹のくくり方一つだと思いますけど……」
藤塚がボソリと言った。つまり、あとは全体を総括している津野が首を飛ばすなりなんなりの覚悟のみである、ということだ。
「ううーん、根が公務員だから不確実なことやりたくないんだよなぁ。……が、仕方ない。亘理さんと藤塚さんは構わないのかな?」
「やるしかないなら、私は仕事をするだけよ。まずそうだったら強制的にサルベージするからね、雫石さん」
「あ……はい」
雫石がサルベージという言葉に身構えている間に、藤塚がため息交じりで津野に返事をする。
「私もここで遅延をしているよりは……」
ふたりのチームリーダの言葉をうけると一つため息をついて津野はキリリとした表情になる。そして、付けたままだったインカムに触れる。恐らくは音声入力だ。エンジニア・チームとメディカル・チームの前にあるモニターが反応し、入力欄がぱっと現れた。
「作戦の内容を変更する。これより付喪神○○○○○との接触はSH-001MS単独で行うのではなく、SH-001MSの配下の刀剣男士・燭台切光忠との共同作業とする。なお接触失敗時のリスクとして付喪神との接触が永久に不可となる可能性がある。その際は付喪神○○○○○との交渉の一切を放棄し、SH-001MSは次なる付喪神との接触作戦に移行する。
プロジェクト責任者・津野悟朗、作戦変更を承認」
「メディカルチームリーダー・亘理祥子、作戦変更を承認」
「エンジニアチームリーダー・藤塚数秀、作戦変更を承認」
津野に続いて亘理と藤塚もインカムに触れ、言う。するとモニターが津野に続いてふたりの声の声紋を記録する。
「ほら、お前も」
「えっ」
「作戦担当者って言った後にIDと名前、それから燭台切の名称を入力しろ」
予想していなかった展開に雫石は一瞬躊躇した。モニターの入力欄は四つ目を展開し、カーソルをチカチカさせて彼女をせっついている。
「作戦担当者、SH-001MS、雫石都子。燭台切光忠」
「承認」
津野にこそっと言われて、雫石はやや上ずった声でそれを言った。
「――承認」
モニターが四人の名前を並べ、その上に大きな文字で
『作戦の変更を承認』
と表示し、機械的な声で読み上げた。
「――うっし、これで手続き的なことは完了だ」
「なんか、仰々しいですね……」
「官僚だからなぁ。紙にハンコがデータに声紋になっただけだ」
ま、ハンコよか本人との同一性はとれてるよな、と津野は呟くと燭台切を見た。
「ところで俺らは審神者一人に対して刀一振っていう形でしかこういうのやったことないんだが、どーすんだ? 出陣とも違うだろ」
「そうだね、物理的には移動しない。彼女と同調――シンクロかな――して彼の領域に入るよ」
「つまり複数での接触ってことになるのか。前例ねーけど、やれるんだよな?」
「勿論」
言って燭台切は雫石に向き直る。
「手を出して。亘理さん、必要だったら僕に最初の時みたいにパッチ張ってデータとってくれていいから」
「……ええ」
雫石が手を差し出すと、燭台切はその手をとって両の掌を上に向けさせた。
その手に彼は手を重ねる。
「?」
「受け止めてね」
言って彼は笑う。そして、次の瞬間、目の前が光に包まれる。雫石は思わず目を閉じた。そして、頬に何か触れる気配。
しばらくして目を開ければ、掌の上には太刀が一振。辺りには桜の花びらが舞っていた。
「わ」
思わず取り落としそうになったそれをぐっと握りこむと、雫石はそれを大事に胸に抱えた。
『落とさないでくれたね』
「え、燭台切?」
頭の中に直接声が響く。声が、そして手の中の太刀が笑うのが感じられた。
『そうだよ。ヒトの肉体のままだと同調にちょっと触りがありそうだったから戻ったんだ。五感っていうのは、たまに邪魔だね』
「……感覚を減らしたのね、つまり」
『そうだね』
太刀の間はやはり感覚が減るのだろうか。少なくとも味覚はないはず、と思っていると
「雫石さん、誰と話してるの?」
と亘理が声をかけてきた。その眉間には皺が寄っている。藤塚は明らかに戸惑っているようだった。
「……え、皆さんには聞こえませんか?」
「全く。……ということは、燭台切はそれ――太刀戻ったのよね?」
「はい。……私には彼の声が聞こえるんですが」
その言葉に亘理と藤塚が顔を見合わせる。その様子に、この状況は人類が解明してきた科学の領域の外にあるのだ、と雫石は悟った。
『君は僕の主だからね。特別なんだよ』
くすくすと笑う気配。その様子に、彼が付喪神だということを思い知らされる。
「えっと、それだと何か支障ないかな? 何かあったら私が皆に伝えればいいの?」
『いや、悟朗ちゃんには聞こえてるよ。リーダーだから彼がなんとかしてくれるはず。彼は“視えるひと”だからね』
その言葉に雫石は目を瞬いて手の中の太刀を見つめた後、恐る恐るオペレーションリーダーの方を見た。津野は渋い顔をしている。
『それに“聴こえるひと”でもあるよ』
「壮大なネタバレかますなよ」
うんざりとした口調で津野が言う。それから彼はガリガリと頭を掻いた。
「そういうわけだ。俺はこれでも特殊体質でね。燭台切が俺に聞かせたいと思えば全部聞こえるから安心しろ。お前のピンチはデータが教えてくれるし、データじゃとれない危機は燭台切が俺の脳みそぶん殴って教えてれるだろうさ」
『脳みそはぶん殴らないよ、鼓膜を叩くだけ』
「破らんでくれよ、鼓膜」
雫石はしばし口をパクパクさせたあと、やっと言葉を出した。
「……見えるんですか」
「ああ、“視える”」
「じゃああの付喪神も……?」
雫石は胸に燭台切光忠を抱いたまま、マジックミラーの向こうを指差した。津野は片手で遠眼鏡を作ると、目を眇めてふむ、と言った。
「気配は感じるんだけどな、隠れてやがる。まあ俺が接触しても、俺は審神者じゃないし意味はない」
「も、もしかして、それで“悟朗ちゃん”だったんですか?」
燭台切ははじめから、津野を“悟朗ちゃん”と呼んでいた。妙に親しいその呼び方に首をかしげたものだが、今細く理解の糸が見えた気がする。
「ん? まあ――燭台切とはちょっと縁があってな。この作戦がはじまるずーっと前からな。それで、他の付喪神――刀剣男士よりははっきり姿が見えてたし、今も声が聞こえるんだ」
「な、なるほど」
「えっと、話が読めないんですが」
割って入ったのは藤塚だった。彼はしきりに津野と雫石を見比べている。
「――ま、同窓の先輩後輩のナイショ話ですよ。雫石、そろそろ向こうに行きたまえよ」
津野は微妙なごまかし方をした。雫石は瞬時に、そりゃそうだ、“視える人”なんて突然言われても場が混乱するだけだ、と思ってその指示に従った。
そしてドアを抜けたところでふと独り言う。
「……先輩が審神者になればよかったんじゃ……」
『悟朗ちゃんだと“力”が強すぎたんだよ。僕ら刀――刀剣男士以外の付喪神とも接触できてしまうからね』
不意に返ってきた応えに雫石はギョッとして手の中を見た。抱えた太刀が面白そうにかたかた揺れた気がした。声の正体はもちろん彼女の近侍である。
「やっぱりいるんだ、他のモノにも付喪神」
『刀剣男士、なんて、そちらの都合で僕らに着いた分類のようなものだからね。いるよ、たくさんね』
雫石は燭台切光忠を抱えたまま、転送室のいつもの椅子に腰かける。そこへメディカル・チームのメンバーがやってきて燭台切にデータ取得用のパッチを取り付けた。その人曰く、付喪神二体での接触は初めてなのでやはりデータがほしい、ということだった。
「大丈夫? いづくない?」
いづい、というのは彼女の故郷の言葉だ。居心地が悪い、とかしっくりこない、と言ったような意味だ。太刀がその言葉に笑った。懐かしい、という男の言葉が頭の中に優しく響く。
『大丈夫だよ、ありがとう。……僕は悟朗ちゃんが審神者にならなくて良かったと思ってるよ。そうなったら十中八九、僕は彼に従うことになっただろうしね――君と出会えてよかった』
静かに響いた言葉に雫石は驚き、少しばかり臆した。そしてぐっと太刀を抱き寄せる。
彼が人の姿をとっていなくて良かった、と思う。
本人に自覚がどの程度あるかは不明だが、「君と出会えてよかった」などとは反則である。しかも優しげな良い声で、囁くように、とは。
太刀の彼がどの程度外を――正確には彼女を――視覚的に認識しているかも不明だが、赤くなった顔をあの優しい灯りの色の瞳で見られなくて良かったと雫石は思ったのだ。
『まず燭台切とのシンクロだな、準備はいいか』
降ってきたオペレーション・リーダーの声に雫石は自分を律した。
「――はい」
剣を抱いて横になる、とはどこかの絵画の題材のようだと思いつつ、雫石は椅子に身を預けるとグラスをONにした。刀の頭が頬に触れる。
『付喪神001とのシンクロ開始を確認。シンクロ率上昇、50、60――』
カウントアップの声は遠ざかる。

[初出]2015年6月29日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5487527)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日