意識がはっきりしてくれば、そこは夜だった。ふと気付けばボディスーツではなく、ジーンズにシャツという私服になっていた。
目線を先にやれば、坂の上に――巨大門。
「ああ、懐かしいね。確かに大手門だ」
傍らの声に気付いて目をやれば、男。彼も気づいて少しばかり視線を下ろしてくれた。
「燭台切」
スーツに武具。それは彼女の近侍であった。
「あんまり離れないでね、僕が隠れにくくなっちゃう」
「うん。……あの」
すっと雫石はそびえたつ門を指差した。
「あれ、名護屋城の門なの?」
その質問に、ひょいと燭台切が眉を開いた。
名護屋城、とは文禄・慶長の役の際豊臣秀吉が築いた拠点の城のことで、出兵が何の成果も得ず、さらに時が流れて天下人が世を去りその城が破却されると、その門は伊達政宗に譲られた――という説があるのだ。その説に従えば、名護屋城の門と仙台城の門とは同一のものということになるのだ。
うーん、と燭台切が顎を撫でる。
「……その辺りのことは、僕はよく覚えていないかも。あの頃公はよく景秀を連れて歩いていたから、彼が何か覚えているかもね」
「景秀」
「くろんぼ斬景秀。鞍切、とも言うかな。くやしいけど、彼の方が公のお気に入りだったからね」
景秀は光忠の弟という説があったっけ、と雫石は思う。
そういえば伊達家の「景秀」をはじめとする「亘理来」「はばき国行」の三振は政宗の遺言によって永く家を出ることなく守られた、ということを彼女は思い出した。
その三振と傍らの近侍の境遇の真逆さにふと雫石は眉を寄せた。政宗が号を与えた刀のうち、彼は最も早くに家を出ざるをえなかった刀だ。
「太鼓鐘貞宗にくろんぼ斬景秀、亘理来にはばき国行。みんな、会えるといいね」
そんな彼女の眉間の皺に気付かないのか、彼はひょいと背をかがめて主を覗き込み、優しく言った。雫石は屈託のない言葉と表情に、どうしたらいいかわからず曖昧に笑うしかなかった。
「それより、今は目の前の“彼”だけど」
燭台切は雫石の作り笑いに何か読みとったのだろうか、わずか苦笑を見せると、大手門の方へ向き直った。向けられた横顔の左目が夜だと言うのに輝いて見えて、その表情はいやに好戦的に見えた。
その時、頭上からいやに低い異音が聞こえた。ブゥン、という人工音。
――プロペラの音。
いつかのドキュメンタリーで聞いた音だと雫石が顔をあげれば、暗い夜空になお暗い機影。
「……、B-29だね」
嫌な音だ、と燭台切は言う。
『仙台よい町 森の町 7月10日は灰の町』そう空からビラが降ってきた、という証言がある。その宣告通り、1945年7月10日、仙台にB-29爆撃機が100機越、襲来する。
雫石は思わず振り返った。大手門と逆方向には、広瀬川を渡る大橋がある。そちらへ――思わず一歩踏み出しかけると、ぐいと左手首を掴まれた。
「どこへ行くのかな?」
「……皆を助けるのは無理だけど、橋を渡って大手町を抜けて、評定河原橋を渡れば――」
「経ヶ峰。……瑞鳳殿に感仙殿、善応殿だね」
燭台切が挙げた三つの名は、伊達政宗、息子忠宗、孫綱宗、仙台藩伊達家三代の廟――墓所の名である。それらは今夜、大手門ともども焼け落ちる運命にある、桃山建築の粋を集めた貴重な建築で、特に瑞鳳殿は旧国宝だ。
「行ってどうするの?」
燭台切はひどく優しく静かに聞いて来た。
「……」
雫石が答えに詰まると、彼はまた苦笑する。
「ここは、タイムジャンプ先じゃなくて、“彼”が作り出した空間にすぎないよ。経ヶ峰が再現されてるかすら不明だし……行っても、仕方ない。それに」
ぐい、と燭台切に雫石は引き寄せられた。その急な行動に思わず自由な手を彼の胸のあたりに添えてバランスをとってしまう。
腕の中で見上げれば、爛々とした金の瞳がまっすぐに見下ろしてきていた。掴まれた手首が痛む。
「……もしここがタイムジャンプ先で、君がそういう行動をするなら、僕は君を敵として斬らなければならない」
「……!」
雫石がはっと気づいて身をよじれば、燭台切は手首を解放した。革の手袋に外気を阻まれていたか、わずかな痛みとともにひんやりとした空気がそこにまとわりついた。
「……ごめんなさい、ちょっと、色々見失っていたかも……」
掴まれた手首を撫でながら、雫石は項垂れて言った。
「……やっぱり悟朗ちゃんでなくてよかった」
そんな雫石へ苦笑を交えた声が降ってくる。見上げれば、燭台切は小首をかしげて言った。
「悟朗ちゃんは公にも経ヶ峰にもそんなに思い入れがないから。……僕の大切な人、愛してくれてありがとう」
ふわりと笑って言われて、雫石は自分の愚かさと彼の優しさに赤くなるしかなかった。辺りが夜でよかった、とまた思う。
そんな雫石へ「そうそうそれに」と一段明るい声が届いた。
「ここで歴史を変えちゃったら、政宗公が血液型B型で眼窩には異常がなかったっていう発掘結果がわからなくなっちゃうでしょ? それは歴史学的にとっても大きな損失じゃないかな? それと、忠宗公はA型だっけ? それで、愛姫様はA型かAB型じゃないかって言われてるんだよね?」
「あっ……あ!!」
そうなのだ。瑞鳳殿など三つの廟は、焼け落ち、再建されることによって発掘が可能となったのだ。62万石、日の本諸藩第三位の藩の藩祖、二代目、三代目の墓の発掘など、貴重以外のなにものでもない。血液型や遺骨の状態ばかりではない。副葬品に埋葬方法、それらすべてが貴重な調査結果なのだ。それは、焼け落ちたからこそ得られた、歴史学の貴重な財産であった。
「たいへん、史学徒たる私がそんな大事なことを忘れてたなんて……!」
燭台切が笑った。史学徒たる私、を取り戻したらしい雫石に安心したのか呆れたのか。
そして、笑みを収めると彼は大手門を向いた。
「さ、て」
言って、燭台切が向き直る。
「ともかくも、“彼”だよ、今は」
「……そうね」
雫石も向き直り、辺りを見回した。坂の上には大手門。左手に五色沼。そして橋。その先は――闇に解けている。
「……うん、やっぱり子門はないね」
五色沼と長沼という堀にあたる部分を渡る小さな橋。その向こうには、何もないのだ。そこに「子門」があったのだ、かつては。
「……“彼”がどこにいるのかわかる?」
「大手門の上だね。……やっぱりここと、あそこら辺しか再現してないんだ」
言われてみても、そこには暗い空があるだけだ。
「ちょっといい?」
そう言って、燭台切が雫石の目の前に手を差し出した。
「息を吐いて」
雫石は首をかしげつつも、息を吐いた。その呼気を掴まえるように黒い手袋に包まれた手が握りこまれる。そして手はそのまま下を向き、ぱっと何かを逃がすような動きをした。
すると、放たれたように白い靄がそこへ落ち、漂うことなく留まった。
「君の気配を置いていく。ダミーだね」
「……やっぱりあなた、付喪神なのね」
人ならぬ技に感嘆しつつ言うと、燭台切はまた苦笑したようだった。
「こういうのに怯えない君のこと、好きだなぁ。……それじゃあ、お嬢さん、御手をどうぞ」
「手?」
燭台切の左手が優しく差し出されて、雫石は思わず右手を素直に預けた。今度は優しく、手が握りこまれる。
「子門から巽門方向に向かって、清水門を抜けよう。……登城だ。君の記憶、借りるよ」
言うと、雫石が知る五色沼にかかる橋のむこう、土塁と石垣の小さな、車が二台ようようすれ違うような狭い道に、見たこともない門が立ち現れた。
――橋と土塁と石垣は雫石の記憶であり、立ち現れた子門は燭台切の記憶をよすがとするものであった。

手を引かれ、子の門から三の丸の敷地へ入りこむ。
門をくぐれば、そこは昼であった。
暗いと気が滅入るからね、とは近侍の言である。
うって変わった燦々とふりそそぐ陽光に、雫石はほっとする。不気味な機影はもちろん一つも見えない。白い雲もない、快晴。青い空は優しい。
「僕がいたころは、東丸だったかな」
三の丸には、米蔵が並んでいたとも伝わる。雫石にとっては仔細不明に近い場所だが――どこかで、後の時代には武士たちが詰めて働くようになったとも聞いたことがあった――燭台切には少し異なるらしい。
彼が見たのは蔵の並ぶ風景だったのだろうか。右手に、降り注ぐ陽光の下白い土壁がまぶしい。左手には土塁。その向こうに長沼があるはずだ。
雫石は額に手でひさしを作ろうとして、ふと燭台切と手を繋いだままであることに気付いた。
「……手、離してもいい?」
「ダメ」
キッパリと言われてやや雫石は虚つかれた。
「この辺りの再現の関係もあるけど、僕の気配は君で、君の気配は僕で消してるんだ。手を離したらあっという間に見つかっちゃうよ」
「よく、わからないけど……つないでいた方がいいのね?」
「うん。三の丸じゃ“彼”もそんなに吃驚してくれないだろうし。……それに僕は所詮付喪神でそんなに強い力はないし、君は人間だからね。お互いに補い合ってるんだよ」
お互いがお互いの、何らかの力の増幅装置になっているということだろうか、と雫石は考えた。
――わからないことが多すぎるし科学的課題も多すぎるけど、とりあえず現状目の前で起こっていることは受け入れるしかない。
そもそもが、ここが現実にはあり得ない異空間的な場所なのだ。人の常識は置いておこう。「少しのことにも先達はあらまほしき事なり」で、今は燭台切がつまるところその先達なのだ。問題は事態が「少し」ではないことなのだが、それは彼女にも彼にもどうしようもないことだ。そもそもが国家規模なのだから。
二人並んで歩きだすが、やがて雫石の足取りが遅れ出す。
もともとの背の高さ、足の長さのせいもあるが、それよりも雫石が立ち並ぶ米蔵や酒造蔵、そして現存しない様々なものに目を取られている影響の方が大きかった。
それでも燭台切は彼女をせかしたりしなかった。ただ少し先行して、導くように彼女を歩かせる。そして時折、自身も懐かしげに彼女の視線の先へ目をやるのだった。
二人以外に、人の気配はひとつもない。それは寂しくもあり、不気味でもあるが、恐ろしくはなかった。
今では礎石しか残らない巽門を右へ折れる。これもまた、あの戦争の混乱で失われたといわれている門であった。
山から湧き出る清水の横にあるため「清水門」と呼ばれた門を抜けて、さらに上へ。名残惜しげに立ち並ぶ蔵を振り返った雫石を、燭台切は少しばかり待ってくれた。
そして、沢門を抜ける。
23世紀では舗装されたそこは踏み固められただけの道であり、靴底の感覚が異なることに雫石は不思議な心地になった。
――知ってはいたけど、門多いわ……。
戦国末期につくられた山城は、予想外に実戦向きだ。……結局、ここが軍用の砦として使われることはなかったのだが。それでも見た目よりもきつい勾配、分かりにくい道、二重三重の門の構えは襲来する敵の意気をくじくに相応しい。
そして、その最後の仕掛け。
「待って!」
それが目に飛び込んできて、雫石は燭台切に言った。そして今度はそのきつい上り坂で、彼女が先導し出す。燭台切はひっぱるような彼女の足取りに、少し驚いたようだった。
登りきって――といってもカーブの頂点であるだけで、まだ先は登るのだが――雫石はそれを見上げた。視線の先には櫓がある。艮櫓、と呼ばれるものだ。
しかしそれよりも、彼女を引き付けたのは、その下にあるそり立つような石垣だった。
今、人々が知る仙台城の石垣は、長方形の大きな黒い石が規則正しく、紙一枚通さないような密度で、まっすぐ天まで積み上げられているものだ。
だが、今彼女の目の前にあるものはそれとまったく異なる。
石は自然の形のまま積み上げられており、そして角度もそり立つというには少し甘く、また石垣はまっすぐそのまま天を目指すのではなく、段を形成していた。
その姿は、23世紀の現代で知られる仙台城の石垣とは全く異なものだ。
「第I期の石垣ね!」
言って、彼女は近侍を引きずるように石垣へ近づいていく。その思わぬ力に、燭台切は少々面食らったようだった。
「今私たちが見てるあの綺麗でカミソリみたいな石垣は、四代綱村公が作ったものよね。そうだわ、あなたが知ってるとしたらこの石垣なのよ。政宗公も御覧になった……」
雫石は開いている手でそれに触れる。ざらりとした石の感覚。
「公御自ら作らせた、のはこれだね」
手を繋いだまま横に並んだ燭台切はまたも苦笑していた。
「すごい、まさか見れるなんて」
「僕の記憶から再現してるだけだから、全部正しいってわけじゃないけど」
この石垣は、今表に現れている石垣の下に眠っているのだ。発掘調査で発見されたそれは、貴重な文化財と認識されつつも、現代の生活に即するために埋め戻されたのだ。ゆえに、今の人々はそれを直接見ることはかなわない。
雫石は石を撫でた。そして、手近なところにある石ひとつひとつに触れていく。縁に触れ、指をかけてみたり、掌で叩いてみたり。ひとしきり触れて、雫石は近侍を振りかえった。
「すごいわ! 見せてくれて、ありがとう!」
すると、燭台切はますます苦笑した。
「石垣で御礼言われちゃうなんてね。……ここでびっくりしてたらゴールでは気絶しそうだよ、君」
「しないわ! 目に焼き付ける!」
きゅ、と思わずつないだ手を握り締めると、革に包まれた手が優しく握り返してきた。
女を見下ろす男の眼が三日月よりも優しく細くなる。
「……こんなに喜んでもらえるなんて。……もっと見せたいものがあるけど、今は先を急がなくちゃ」
「……あ、そっか」
ちょっと忘れてたでしょ、と男は笑った。
そして二人は山城攻めを再開する。
最後に現れたのは、詰門。大手門ほど巨大で絢爛ではないが、本丸を守る重要な門だ。
少し臆して足取りが鈍くなった雫石を、燭台切はエスコートするように連れて行く。
扉は開いていて、容易に入ることができた。
中へ入れば、左手側に建物が集中していた。
今では見ることはかなわない、大きな屋根が連なる。
そして、ごく近くにまた、門。
「……御成門?」
「あたり」
今まで見たきた物に比べればずっと小さな門――だが、何よりも豪奢だ。
ゆったりとした印象のある唐破風が特徴の四脚の向唐門である。向唐門はそれだけで重厚な印象を見る者に与えるが、それだけではない。菊花をあしらった金の金具。扉の紋だけではなく、部材の継ぎ目にも金の金具を使っているのだ。破風拝飾はもちろんのこと、破風板の先にある破風尻が金なのだ。破風板が黒であるので、それがよく映えていた。
「入ろう」
「え、入ろうって」
ぐいとまた腕を引いた燭台切の手に雫石は逆らった。
「御成門から?」
「そう、その先は大広間だよ」
「いや。いやいやいや」
雫石は力強い男の腕に腰を落として抵抗する。
「裏裏、裏から回ろう」
御成門とは、天皇や将軍がやってきたときにだけ開かれる門であり――仙台城においては、完成から破却の時を迎えるまで結局開かれることのなかった門だ。門の先にある大広間には「上々段の間」という藩主より上に座す場があり、そここそが天皇を迎え入れるために作られた場所であった……と言われている。そこにこの門は繋がるものなのだ。
そんな門を潜るのは、気が引けるどころか不敬である気がして、雫石は抵抗しているのだ。
「だめだよ農民なんだから、代々、ウチ」
「うーん」
雫石の力一杯の抵抗を片手で受ける燭台切はびくともしない。余裕綽々に空いた手で形のよい顎をなでさえする。
「……でも君、現実の大広間跡で御成門とか上々段の間とか気にせずウロウロしてるんじゃない? 今さらだよ」
それにここ、厳密には現実ではないわけだし、という身も蓋もないことをいって近侍はにこりと笑う。
「そう、なんだけど」
「それに、御成門が開いたら“彼”も気づくはず」
燭台切は顔を今では見えない大手門のほうへ向けた。その顔に、挑戦的なものが再び宿る。
「大広間へ入ればなおさら、違和感を感じるはずだ。“彼”が作っていない空間が出来上がっていること、それに“開かなかったはずの御成門”が開いたこと……ちょっとは刺激になると思う」
「それ……危なくない?」
下手をするとまだ見ぬ“彼”を怒らせるのではないだろうか――雫石がそう思って聞くと、彼は挑戦的な色を少しだけひっこめた。
「君は僕が守るよ」
なんとも魅力的な台詞のはずだが――このときの雫石には不安のほうが勝った。
だが燭台切は頓着とせず、すっと御成門へ空いた手を伸ばした。ぎぃぃ、という音がして重い扉が開いていく。
付喪神的なわかりやすい動きに雫石はため息をついた。それから引かれるままに、最後の門をくぐった――

[初出]2015年6月29日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5487527)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日