[初出]2015年6月29日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5487527)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日
門をくぐると目に飛び込んでくるのは、三角の大きな屋根だ。 破風拝飾と破風尻はやはり、金。だがそれより巨大な切妻屋根の正面には、左右に五七桐紋を従える菊御紋。なによりそれに目が引かれる。こけら葺の屋根は、もはやこの現代においてはふるい文化財にしかみられない。 雫石は茫然とそれを見上げる。 ――何度も図絵で見たはずなんだけど。 たとえこれが燭台切が作り出した立体映像――幻、とは彼女はあまり言いたくなかった――だとしても、やはり体感は異なる、と彼女は思った。 見上げる威容。 見下ろされる感覚。 それは小さな絵図からは分からないものだ。 これが今は亡き仙台城の核となるものなのだ。 近侍は主が身動きひとつせずにじっとそれを見上げているのを、辛抱強く見守っていた。 やがて、雫石は息をひとつ吐いた。 「もう、いいかな?」 それを見て燭台切が声をかける。雫石は傍らの近侍を見上げ、一つ静かにうなづいた。 「今さら車寄を抜けて御成玄関から入れない、とかはナシだよ」 燭台切はそう言うと開いた手の人差し指を「ナシ」のところで口の前に立てた。妙にサマになる動作と、言葉の内容に雫石はやや引いた笑いを見せるしかない。車寄、御成玄関とはこれまた貴人のためのもので――こちらも現存時、実際に使われたのかが定かではないものだ。 引いてはいつつも笑ったことは燭台切には是と取られたらしい。またつないだ手が彼女を引っ張る。 玄関の階にたどり着くと、雫石は 「待って」 と言って手をついだまま屈んだ。ああ、と燭台切が声を上げた。 ――土足はさすがに。 いくら現実ではないとは言え、マナー違反というものだ。 屈めば靴は――スニーカーだった。仙台城址を訪れるときはだいたいこんな恰好だからかしら、と自分の姿に思う。彼女が片手で紐を解く間に、燭台切は革靴を脱いで階の一段目に上がっていた。その靴と、自分の靴を脇へ寄せて――並ぶと、妙に男女の別が際立つ大きさの差があった――彼女は振り返る。靴を揃えるまで、燭台切は辛抱強く膝を少しばかり折って中腰になってくれていた。 「ごめんね」 その姿勢にあわてて立ち上がると、彼はまた笑う。 「いや。やっぱり君でよかった。ここは、僕の大事な場所だから」 悟朗ちゃんなら躊躇なく土足で駆け上がっただろうねぇ、という燭台切に津野を知る雫石は苦笑する。 階ではやはり――一段とわかりやすく――燭台切がエスコートするように先導する。 なにか着飾っていないのは残念だ、とふと雫石は思った。 大広間という場もそう思わせた原因だろう。成人式の時の振袖なら相応しかっただろうか、と内心で首をかしげる。 階を上がりきれば、立派な木戸は閉まっていた。また燭台切が手をかざせば、それが開く。そして、現れた畳敷の間。先で閉じていた襖が次々に開いていく。 「……千畳敷」 「さあ入ろうか」 開いた襖は四つ。大広間、と呼ばれる所以がこれだ――奥まで一続きの間となるのだ。 手前から、紅葉の間、檜の間、孔雀の間、と呼ばれる。襖絵は狩野派の手になるものだ。 最も奥は、上段の間――藩主が座す場だ。 床には狩野左京による『桐に鳳凰』。 うねる幹と枝を持つ木の下、遊ぶ瑞鳥――鳳は雄、凰は雌。尾羽の長いつがいの鳥は、互いに羽を広げ視線を交わしあっている。その視線はひどく優しい。岩絵の具の青と緑が特に鮮やかで、赤がつがいの鳥に命を与えている。それはもはや、誰も目にすることが叶わぬ絵であった。 藩主の座す上段の間は鉤型の段になっており、鉤型に折れるあたりを境にそれぞれ「鳳凰の間」「公卿の間」と呼ばれたとも伝わる。 だがそれよりもやはり最大の特徴は向かって左手にある「上々段の間」だろう。「上段の間」よりさらに一段あがったところにあるそこは、御成門をくぐることができる者だけが座すことができた場所だ。 見上げれば正方形の、規則正しい格天井が美しい。格間に図絵はないが――金箔が貼ってあるのだろうか。格縁の黒で、見事なコントラストでもって人を見下ろしている。 畳は青く、イグサの香りがする。 そのどれもが現存していないものだ。 雫石はため息をついた。 「……そもそも農民は大橋を渡れなかったのよね」 「うん?」 身分があるころ、土とともに生きる者は城下と城をつなぐ橋を渡ることすらかなわなかったと聞く。 「伊具の農家の小娘が、上段の間の真ん前にいるなんて、絶対にありえなかったことよ」 手を取られて鳳凰の間近、上段の間の手前まで進んだ雫石は感嘆を持って言う。 そして、歩んできた紅葉、檜、孔雀の間を振り返る。 「ここに――みんないたのね」 この広間には伊達家臣団がいたのだ。 最前は一門格。有名な伊達三傑のひとり伊達成実は亘理伊達氏の主として石川氏、水沢伊達氏、登米伊達氏、涌谷伊達氏などその血のどこかで伊達家あるいは政宗と繋がるものたちと共にその一角を担ったはずだ。 その次には、一家格。末席には景綱、重長、景長の「三人の小十郎」で知られる片倉氏がいる。 さらに後ろには、準一家。代々の伊達家と結び、時に争い、最後には政宗に従うこととなった南奥州の旧大名家に連なる者たち。 そしてその次には、左月斎として知られる鬼庭良直と、その息子でこれまた伊達三傑が一人として知られる茂庭綱元とを先祖に持つ茂庭氏を含む一族格がいたはずだ。 綿々と綿々と、重臣たち、歴史を彩る者たちがここに居並び、藩主へ頭を垂れたのだ。 その光景は――いったい、どのよなものだったのでだろうと、雫石は思い、空いた手で作った拳を胸にあてた。 「……僕の記憶だから、仔細は異なるよ、きっとね」 畳の間に居並んだであろう重臣たちに思いを馳せていれば、燭台切が静かに遠慮がちにそう言った。 雫石は畳の間から目を離し、近侍を見上げた。 「それでも――貴重な体験だわ。ありがとう」 黒い手袋に包まれた手を握りこんでそう言えば、近侍は驚いたようだった。晒されている左目を見開き、そして笑う。弧を描いた金は満ち欠けする月のようだ。 それから、彼はふと真面目な顔になる。 「“彼”が怪しんでる。そろそろ種明かしにしよう。坂の下に置いてきた君の気配を消すよ――僕は、隠れる」 「――うん」 「悪い子じゃないから」 言いながら燭台切はすこし主から離れた。つないでいた手を少し開く。 「そばにいて、見てるから。なにも心配しないで」 「わかった」 黒い手袋が、勇気づけるように細い女の指をなでて、離れた。 ついに解放された手がひんやりとした空気に触れる。革の手はあまりにがっちりと彼女の手を包みすぎていたのだ。すこしばかり、湿っている。 燭台切は手を離すと、彼女の眼を見たまま彼女の背側に回り込んだ。そこには彼女の影があり、彼はそこに一歩踏み込む。ぎりぎりまでまわした雫石の視界で燭台切が溶けるように消えた。黒い彼は彼女の影に溶けてしまったのだろうか。 雫石はひとつ息をはくと――摩訶不思議には慣れるしかない、と思った――今来たばかりの、御成玄関のほうを見た。 現れるとしたらそちらだろう、と踏んだからだ。 だが――しばらくそちらを睨み続けても何かが現れる気配はなかった。 ――“彼”も山を登ってきているのなら、しばらくかかるのかな。 ふとこれまでの道すがらを振り返り、思う。 ――大手門からだと、20分か30分くらいかかるかしら。 正確な時間は忘れたが、3分ほどの距離ではないことは確かだ。 雫石はそれに思い至り、徐々に緊張を解いていった。 体感で5分ほどたったところで、雫石はふうと息をついて体を弛緩させた。 そして手持無沙汰にかこつけて、あたりを見回す。千畳敷、とは大広間の異名だ。はたして本当に「千畳」敷なのか数えてみようかと思ったが、それは野暮ということに気付いて雫石はやめた。 その代り、玄関へ背を向けて近づいたのは――上段の間。 目線はその先、鳳凰の床。 金地につがいの鳥は本当に美しい。この描き手はこの鳥をどこで見たのだろう、存在しえないこの鳥を。尾羽が長く伸び、自慢の翼を広げているのはきっと鳳、それを優しく見守るようにして控えめに翼を折りたたんでいるのがきっと凰。 床にはこの時代のものらしく火頭窓がしつらえてあるが、そのおかげでヒトの子はこの瑞鳥の優しげな逢瀬をそっと覗き見している気分になるのだ。 雫石はふとさらにその窓に近づいてみたくなり――そっと踏み出したが、それを阻止したのは上段の間を形成する小上がりだった。美術館のロープ・パーティションのように不意に立ちふさがったそれに雫石は苦笑した。 ――殿様の座す場所を結界ロープみたい、なんて。 不遜である。 苦笑しながら見下ろして、雫石はそっとそこへ膝をついた。 縁の材は格天井と同じく黒――これもまた、イグサのあおと相まって見事な景色となっている。イグサがこの先、黄金に似た色に変化してもまた味が変わる、そんな黒だった。 そして、その光沢のある黒はどんな手触りだろうとそうっと手を伸ばした時だった。 「そこは藩主の御座所」 響いたのは、見知らぬ声。頭上から――雫石は思わず振り仰いだ。 「そこは藩主の御座所。小娘ごときが触れるな」 直後、ドン、という音と衝撃波。 ――焼夷弾?! 思わず尻もちをつき、目をつぶる。これまでの経験では、それは炎をまとうものであった。だが風が吹きつけるばかりで、熱さはない。 そっと目を開ければ、そこに見覚えのない鈍く輝く塔が出現していた。 「……違う」 だが塔でないことに雫石は気づいた。これは両刃の剣だ。 それが天井を突き抜けて、床まで刺さっている――だが不思議なことに、天井にも床にも突き破られた形跡はなく、剣と木造建築の接触点はとろけるようにあいまいな空間になっている。 そしてまた、剣の周りの天井がとろりと溶けるような色をした。 ――何か来る。 立ち上がって身構える。 天井をするりと抜けて剣を伝って現れたのは、大きな鉤爪だった。 そして次に現れたのは、巨大な鼻面。鱗のある頬に、太い二本の髭、そして幾重にも枝分かれした角。 現れたのは、褐色の竜だった。 大きな竜はするするとこれまた巨大な剣を伝って、彼女のほうへ首をのばす。 金の眼が小さな女から離れることはない。 ――付喪神に鳳凰、そして竜。今日はなんて日。 瞳孔が縦に伸びるそれに睨まれて、雫石の胸中に浮かんだのはそれだった。かすかにどこかでくすりと笑う気配がしたが、気のせいだろう。 恐ろしくはない、といえば嘘になるのだが、どちらかというと唖然とする気持ちのほうが勝っていた。 それに彼女は、竜を好いていた。政宗が独眼竜と呼ばれることもあるのだろうか。霊獣の長ともされるこの想像上の生き物は彼女にとって憧れでもあったのだ。 ――やっぱり、狩野左京は鳳凰をどこかで見たんじゃないかしら。 そして目の前に現れたその存在に、場違いな考えが浮かぶ。付喪神もいる、竜も今現れた。とすれば、床にいる瑞鳥が写生の結果でもおかしくはない、と彼女の中に残った夢想家がいう。 ――ああ、だったら丸山応挙が虎を写生したら、きっともっとすごかったんだわ。 皮と猫から虎の生きる姿を想像し描いて見せた巨人まで思いをはせたところで、はた、と彼女は“現実”に戻る。 一つ頭を振ると、竜に向き合った。……恐ろしくはないのだが、現実逃避はしていたのかもしれない。 「……は、はじめまして」 顔だけでも彼女の身長と同じくらいの大きさがある。ぐいと伸ばされた首に思わず後ずさりしそうになるが、こらえる。 竜は答えない。 困ったな、と彼女はそっと胸で呟いた。 「あの……何度かお話したいと思って大手門のところにいた者なんですが」 「知っている」 答える声はどこか威圧的であるが、なぜか耳にはひどく若く聞こえた。竜の巨体にそぐわないような、青年の声――しわがれた老人の声では決してない。 きらめく鱗はところどころ鋼のようだ。まるで鎧だ、と雫石は思う。鱗は本来、外敵から身を守るためにあるというから、竜は正しい姿をしているのだ。 「実は、あなたの力を借りられればと思ってお話をさせていただきたくて何度か接触させてもらっていたの」 単刀直入に言ってみたが、竜は緩慢に瞬きするばかりで答えない。雫石は息をひとつはいた。 「人間の技術の進歩で、私たちは過去の時代にお邪魔する事ができるようになったんだけど、悪いことを考えるやつがいて。歴史の流れを無理に変えようとするものがでてきたの。……それに対抗するために、あなたの力を貸してもらいたいんだけど、どう、でしょう?」 雫石は竜の以外に若い声に、わざと一部言葉を崩した。イメージとしてはどうも、彼女が講師として相手にしている――あるいは先日まで彼女もその一員だった――学生くらいではないか、と思ったのだ。 教師たるもの若い才能を尊重すれこそ謙り過ぎてはならない――それが鉄則だ。まして彼女はこの竜の上に立たなければならないのだ。 「俺には関係ないな、勝手にやったらどうだ」 竜は興味なさげにそう言うと、あたりを見回した。そして、言う。 「人が付喪として俺を欲する意味がわからない。刀として振るいたいのなら、かつてのように腰に差せばいい」 「生身の人間が時間を超えられるわけじゃないの。こちらもあちらも、付喪神を使って過去の時代で動いているの。だから、協力を得たいんだけど……」 竜がふーっと息を吐いた。まるで興味がわかない、そんな感じであった。 「どうでもいいな」 「どうでも、って」 取り付く島がないとはこのことか、雫石は思った。少しばかり心がいら立つ。 「歴史が変わっても構わない、ということ?」 「変わったとして、誰が困る?」 誰が困る! なんとまあ、根本的かつ重要な問いだ、と雫石は思った。 「そうね、困らないかも――これまでがんばってきた歴史家以外はとくに、ね。歴史が変わって、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が負けない、なんてことになれば、この大広間も保たれたかしら」 竜が雫石を驚いたように見た。竜の目に喜びが宿ったように見えて、雫石は少し息をつめた。 ――今の“彼”は、坂の下にいた私と同じ。 経ヶ峰に向かおうとして近侍に目を覚まさせられた、わずか前の彼女と。 「もっと極端なことを言えば、焼夷弾が降ってきて、大手門や瑞鳳殿が焼け落ちるなんてことはなくなるのかも。でも私は、それが喜ばしいことだとは思わない」 竜の表情が変わったように見える。怪訝そうな顔になった、と思う。 「人は負け続けるわけじゃない。這い上がっていけるものなの。戊辰戦争で負けない、というのは夢のある話かもしれない。……だけど、降伏の後に、北海道に渡って歯を食いしばってそこに町を作った人たちの努力は、消えることになるわ」 「……、亘理と当別の伊達に、片倉……」 竜は静かにその名をあげる。それはイエの名で――戊辰戦争での降伏後、伊達家重臣のうち削られたごくわずかの所領にすがることなく、北海道に渡りほとんどゼロから新たな地を開拓する事を選んだものたちの名であり、すなわちそれは主と家臣たちの総称だ。彼らが作った町はそれぞれ、伊達市、当別町、そして札幌の白石区と手稲区などとしてその地に名を残している。 「敗れざる者たち、よ」 雫石が彼らをそう呼ぶと、竜の金の目が優しくなった気がした。
[初出]2015年6月29日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5487527)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日