「彼らの努力を無にしないためにも、力を貸してほしいの」
竜が、首をひいた。脆い女のからだと竜のあぎとの間に距離が生まれて雫石はほっと息をついた。
「……よくないものがいるのはわかった。だが、慣れ合うつもりはない」
「慣れ合うって、……でも」
一人で戦う――そういうことだろうか。
付喪神には過去をさかのぼれる力すらあるというのか――雫石がそう考えると、否、と低い場所から応えがあった。
『それは国産みの神にすら無理だよ――日の本だけじゃない、どこの国の神にもだ』
だから彼らはあらゆる道理を越えようとしているんだ――近侍の声に内心で耳を傾ければ、竜の耳がピクリと動いた。
「やはり、いるな」
「えっ」
『……!』
ぐいと竜が首を下げ、塔のような剣をつかんでいた片手を下す。巨大な鉤爪がイグサを裂いた。
「坂の下にはもう一人いた。そしてお前はこの大広間を“見ていない”――お前が知っているのは、更地に騎馬像がある青葉ヶ崎だけだ」
「えっと……」
「気配がした――隠しているな」
『ああ、まずい。知り合いだから気配、気取られたちゃったみたいだね』
といいつつ、燭台切の声はどこか楽しげだ。雫石は内心で
――ちょっと!
という言葉を投げた。
『ごめん、内容は聞こえていないとは思うんだけど――』
「何をこそこそしている」
低く響いたのは、竜の声。
先ほどまで和らいでいた竜の瞳に険が戻ってきている。
「付喪だな――何のために連れてきた」
「ええと、あなたと話をする場を整えてくれるって……だってあなた、全然現れてくれなかったでしょ?」
だから仕方なくて、という雫石の言葉に、ドン、という音が重なる。見れば残りの手の鉤爪がイグサを深く深く抉っていた。
「隠しているということは害意があるということだ――そんなやつと群れるつもりはない」
竜が浅く刺さった方の爪を畳から引き抜く。そして、それを振りかぶる。
「害意がないなら刀は右に置く――付喪も同じだ」
雫石は鉤爪を見上げた。それは今、雫石の頭上高く高く掲げられている。
――来る。
本能的に次の動きはわかった。だが対処するよりも早く、爪が空を切る音がした。
思わず頭をかばって目を瞑る――だが鋼がぶつかり合うような音がひとつしただけで、肉を裂かれる感覚は一向に訪れなかった。
そっと手をどけて目を開ければ――巨大な鉤爪を太刀で受けている男の背中。
「――!」
名を呼ぼうとしてやめる。竜――別な付喪神の前で彼の名前を出してはいけなかった気がしたからだ。
「久しぶり――でも、ちょっと、ご挨拶じゃないかな」
言いながら燭台切は肩越しに左顔を主に見せた。大丈夫というようにうなづく彼に、雫石は息をのんだ。
燭台切が太刀を抜き、爪を受け止めてくれたのだ。
「貴様――」
鋼の擦れる嫌な音がした。ず、と燭台切の革靴が――玄関に置いてきたはずのものだった――イグサを擦り取った。
「あれ、僕のこと忘れちゃったのかな――寂しい、なぁ!」
言葉尻に、一閃。
燭台切が太刀を払うと、鉤爪がそれた。竜はバランスをくずし、その手をむこうの畳に着いた。
その隙に燭台切は背中に主をかばいつつ言った。
「下がって」
「下がるって……もう上段の間だけど?!」
「あがっていいよ! 僕は気にしない! それに彼は、そこに手を出せないはずだ!」
藩主の御座所、触れるな――竜がそう言ったそこに、彼女の近侍は上がれという。
――とんだ博打じゃ、と思いつつも逃げ場はない。それに戦いに関しては彼の方が先達である。逆らう理由はない。
トン、とひとつ段をあがれば、竜がギロリと彼女を睨んだ。
「貴様……!」
「ごめんなさい!」
最低限土足でないから許してほしい、と思いつつ叫べば、ギイ、と遠くで音がした。竜が振り返る。
目線の先には御成門。それが今、音を立てて閉まっているのだ。バタン、と木戸の重い音がしたのち、次々に紅葉、檜、孔雀の間の襖が閉まっていく。
竜がぐるりと首を回し燭台切を見た。そして鎌首を持ち上げる格好になる。
「悪いけど閉じさせてもらったよ!」
言って、燭台切は刀を正眼に構えた。
見上げれば、とろけるようになっていた剣と天井の境がまるで塗り固められたような形になっていた。
竜は言葉を発さず、低く呻いた。
「まずちょっと彼女の話を聞いてくれないかな」
燭台切は明るい口調で言った。竜は威嚇で喉を鳴らした。
「うーん、駄目か」
軽い口調で燭台切はそう言う。その背に笑っている気配を感じた雫石はちょっとばかりぞっとした――やはり彼は、普段いくら穏やかでもやはり戦場に“在る”ものなのだと思い知らされる。
竜がまた爪をふるった。燭台切は転がるように逃れる。上段の間、わずか手前に刺さったそれに目を奪われる。逃げた先で体勢を立て直した燭台切が叫ぶ。
「君の相手は僕だよ!」
だが、竜はまっすぐに雫石を見下ろしていた。
――そこは藩主の御座所。
――小娘ごときが。
――無礼な、無礼な、無礼な!
金の両の目はそう彼女に罵声を浴びせている。
雫石はその目を見つめつつも、動けなかった。蛇に睨まれた蛙のごとく。
そして、竜がもう一方の爪を振り上げる。雫石は本能的に縮こまり、頭をかばった。
だが。
「くっ……」
その苦しげな声に目を挙げれば、竜の爪は寸でのところで停止していた。
雫石は思わず後ずさりをしてその爪の下から脱出した。
そして、改めて見上げる。竜の金の瞳には、苦悶の色が浮かんでいた。
――アジール。
その苦々しい色に、一つの言葉が浮かぶ。
アジール、避難所、駆け込み寺、――聖域。
聖なる場所に逃げ込んだものは、たとえどんな残虐な罪を犯した者であれそこに留まる限り罰することはできない――その概念を持つ場をアジールと呼ぶ。海の向こうでは古代の神の神殿や教会、あるいは権力者に対抗しうる自治権を持つ領域などがそれであり、本邦にあっては、駆け込み寺などがそれに比定されている。
「ここは、あなたの聖域なのね」
雫石は竜にそっと語りかけた。
上段の間は竜にとって聖域なのだ。それを自らの爪、いや、農民ごときの血で穢し、ましてや無礼者の肉ごとその座を裂くなど、できることではないのだ。
竜の目が怒りに燃える。
「彼を隠していたことは謝ります。ごめんなさい。あなたがどう出るかがわからなかったから……。それで、改めて話を聞いてほしいの――それで駄目だったら諦めるから」
「群れるつもりもない」
竜は吐き出すようにそう言った。雫石はため息をついた。取り付く島がないとはこのことか、では諦めるか――そう思った時だった。
ドン、と音がして竜の頭が、体が傾いだ。
見れば、燭台切が竜の角に一撃を加えたところだった――高く跳びあがった彼は、難なく大広間の畳へと着地する。
「諦めるのはまだ早いよ、“彼”はまだ話をきいているとは言えない」
よろめいた竜の前足はたたらを踏み、剣へ巻きついている長大な体がそこから離れ、ドーンと音を立てて下肢は広間へ落ちた。畳がずれてめくりあがる。
「そうだけど、とても友好的じゃ――しかもあんなに大きいし」
「彼も僕と同じ付喪だよ――霊獣の長たる竜のわけがない」
燭台切が鋭い視線を向ける先で畳に落ちた竜は四肢をばたつかせている。房のついた長い尾が畳を叩く。埃が舞い上がって燭台切と雫石は腕で顔をかばった。
「あれは君の記憶に触れて自分の姿を組み立てて、君を驚かせてるだけだ――彼は付喪だよ、僕と同じだ!」
「……上!」
語る燭台切の頭上に影がさして、雫石は警告の声を上げた。
見れば扇のような幅広の尾が燭台切を狙って――落ちた。飛び退ってそれを避けた男は飛び散る木材とイグサの中、笑った。
「さすがに体格差がありすぎるね!」
笑みは非常に好戦的だ。竜のものとは異なる金の目がギラギラと輝いている。
笑ってる場合か、という雫石の言葉は喉に張り付いた。
「ねぇ、“彼”は僕と同じ付喪だよ――意味がわかる?」
離れた場所で燭台切は先ほどと同じ言葉を張り上げた。雫石は竜を見る。
竜はしきりに頭を振っている。角に太刀の一撃は重かったのかもしれない。
「同じ……“刀剣男士”」
「そういうこと!」
再び尾が格天井すれすれまで持ち上がる。風圧を察した燭台切が再び飛び退る。
――じゃあ、あの姿。
燭台切は彼女の記憶から姿を作っていると言った。
塔と見まがうほど巨大な剣。それとともに竜は降りてきた。
――倶利伽羅竜王。
あれがあの刀の付喪神だとしたら、その棟にあったあの彫刻。
剣と竜はそれと一致する。

[初出]2015年6月29日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=5487527)
[加筆修正・再掲載]2015年10月16日