桑折と別れ、デスクに戻るとさりげなさを装ってすぐにそこを離れる――部下に見つかってなんやかんや言われては次の仕事に間に合わないというものだ。
事務室を出たところで、ばったりと人に行き当たる。
「ああ、津野さん」
声をかけてきたのは白髪の老人である。着物に羽織姿が様になるのは、重ねた年齢のせいだろうか、と津野はこの人に会うといつも思う。
「相馬さん」
「お久しぶりですな。相変わらずたくさんお連れだ」
ふふ、と笑う優しげな男に津野は肩をすくめた。彼にはどうも、彼を守る様々な神々が視えるらしい。ウジガミが寄越した使いに、商店街の稲荷、学生時代に尋ねた農村の道祖神に修士論文のために通い続けた漁村の豊穣の神。津野の周囲に“居る”のはそれらの分霊だ。津野自身の前にも時々姿を現すが、日常的には彼を煩わせないために気配を消している。
それが相馬には視えるらしい。
「これほどたくさん引き連れて、喧嘩にならないのが面白いところですな」
「さすがに俺と相性の悪かった神サマはなーんにもしてくれませんでしたよ」
だから、俺に憑いているのは俺を格別に気に入ってくれたカミのモノなんですよ、と言うと相馬はにこにこした。
「無視してもらえるというのは良いことです。嫌われた故になにかされても大変ですから」
「それもそうっすね」
津野は言いつつ、廊下の先を示した。実はこの次の仕事は相馬とともにやるものなのだ。
相馬が進むのに歩調を合わせる。仕事――そして目的のものは別室にあるのだ。
「津野さんが審神者だったら百人力でしょうに。これほどの神に好かれているのだから」
「いやぁ……」
津野は廊下の先に視線をやった。苦いものがよみがえる。
「……庁内の適応試験はパスしたんです。だけどテスト転送でちょっと、まあ面倒なことになりましてね」
「おや」
「……三日間記憶ないんですわ、俺。その後は二週間入院だったんです。……敏感すぎる、ってことらしいですわ」
家族からも隔離された三日間について、人は彼に口を閉ざしているが、護り神たちによれば『真っ白な部屋に拘束されていた』ということらしい。二歳の息子のことを思えば自分でもよく戻ってきたと思う。燭台切をはじめとする付喪神や護り神たちが彼の手をつかんで離さなかったためになんとかなったらしい。曰く、逆の手を大きな何かがつかんでいたという。
時を越えた時に何か見てはいけないものを「視た」か、「視られた」かしたらしい。詳しいことはもっと大きな神でないとわからないとのことだが、津野はどこかの神社だのにそれを訊きに行く気にならなかった。助かったという事実のみが重要なのである。
「強すぎるのもまた大変ですな」
相馬はその事情も知る由もなく、平均的に労わってくれたようだった。津野は苦笑して話題を変える。
「それにしても、審神者をお辞めになるとは。相馬さんは神職としても経験豊富ですし、痛手ですよ」
「ははは」
相馬は若者――彼に比べて、ということだが――の言葉に愛想笑いのような声を出した。
「歌仙や陸奥守も寂しがってたでしょう」
「お別れのときには加州清光は泣いてくれましたなぁ」
少し寂しげに笑って相馬はまだ別れて時間がたっていないだろうに、懐かしそうな顔をした。
――そう、先の会議で出た退任する審神者とは相馬のことなのだ。
「ほかの審神者も職員も、残念がっていますよ」
「――とうに亡くなった方々とはいえ、子や孫ほどに若い方が殺し合う景色が目の端に映るのが辛くなりましてな」
津野は相馬の言葉に顎を引く。歴史修正主義者が現れる場所は決まって戦場だった。審神者ももちろんそこへ赴く――正確にはドローンが行き、歴史修正主義者の改変行為を実際に阻止するのは刀剣男士だ。だが、それでもドローンが捉えた戦場の景色は審神者の目と耳へと届く。
主戦場の端の端で行われる未来の人間――その戦場にいる者にとっての、未来の人間だ――の戦いとはいえ、主戦場の惨劇が映らないわけではない。
もだえ苦しむ足軽、撃たれて立ち上がれない馬。欠損のある体、立派な鎧をまとった首のない死体。
それは、平和というものを享受する時代に生まれた者にとっては、地獄そのものの光景であった。
津野は押し黙る。もうすでに会議で了承されたことだから引き留めることもできないのではあるが、相馬が辞職を申し出た背景は津野の予想以上のものであることが読み取れた。
「ところで――」
と今度は相馬が話題を変えた。
「へし切長谷部に執着していた彼女は大丈夫ですかな」
「あ、ああ……」
津野はわずかうなだれる。
「彼女は審神者の任を解かれました。……へし切長谷部自体も一旦顕現を解いてます」
「なんと……」
ふう、と相馬はため息をついた。
「神も人間も付喪も、男と女は複雑なものだねぇ」
「複雑すぎて、審神者の方はカウンセリング行きです」
正確には元審神者か――と内心でごちて津野は頭をかいた。
国宝の刀剣の顕現したものに固執した女がいるのだ。
女の審神者は見目がよく仕事のできるその一振に文字すっかり通り惚れこんでしまい、他の女を遠ざけようとした。一方刀の方は女の心の機微が分からず、事態はこじれにこじれた。影響は同僚の女性の審神者やサポートスタッフのみならず彼女に従う他の刀剣男士にも及んだ。結果、東雲管理下の一人と一振であったが、上司からの依頼で津野と津野のチームのメディカル・リーダーである亘理が介入し解決にあたった。
……もしかしたら東雲の津野へのあたりがキツいのは、そのあたりの助け船が逆効果になったのもあるのかもしれないのか、とふと津野は今になり思い至る。
「傷心、というのは医療の力で治せるものなのかねぇ」
「少しばかり、時間という薬の力を強めることはできるそうですよ」
その騒ぎを外縁から見ていた相馬が漏らした言葉に津野は気づいたことは脇へ置いて、亘理の受け売りをとり出した。
どこまでも同じ廊下が続く――近況報告と他愛ない会話が途切れた時、ひょいと壁に埋もれるような自動ドアが動いて中から人が顔を出した。
「あ、津野主査、と、相馬さん」
研究員のひとりだ――彼は二人に手招きする。
二人の異能者はわずかばかり歩みを速めた。

[初出]2015年11月30日(http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=6102830)
[加筆修正・再掲載]2015年12月31日