――おや? 懐かしい気配がするね。
景色はない。だが声がした。
――鄙の歌人……その気配だ。
さっと視界が明るくなる。青い空、舞う桜。しかしそこは、三春ではなかった。
花の間に緑が茂り、桜の花は天へ天へと昇っていく。まるで春の色をした霞がひろがるよう。遠景に見える、あれは寺の屋根だろうか。
――君かため よし野の山の まきの葉の  ときはに花の 色やそはまし
柔らかな男の声で歌が詠まれ、雫石はここがどこか理解した。その歌は伊達政宗の歌であった。いつ、どこで詠まれたのか。雫石はよくそれを知っていた。
――文禄3年2月27日。……ここは吉野山ね。旧暦を新暦に合わせれば4月……ちょうど桜の咲くころ。
――太閤殿下、関白殿下、内大臣殿、中納言殿、その末席に鄙の歌人。
声が言うのは、吉野山の花見で詠まれた和歌のうち、特に優れているとされた五首の詠み手のことであろう。
雫石は笑う。
鄙の歌人……田舎の歌詠みとは政宗をさした言葉だ。田舎の出にしては教養のある……そう評したのは中納言殿、前田家のものか。しかし、土豪の子から小姓にとりたてられた身分と比べれば、伊達の家は鎌倉時代の奥州合戦にまでその功を遡ることができ、また左京大夫を任官し、陸奥国守護職、次いで奥州探題を補任された父祖のいる家系でもあった。田舎とは無教養を示さない。
――ええ。並びで言うと和歌の実力で入ったのは鄙の歌人のみ、というところかしらね。太閤、関白は言わずもがな。内大臣の徳川家康ももちろんね。それから中納言の前田利家は五大老。この四人は入るべき人で、鄙の歌人は官位も政治的な実力も年齢も、なにもかも届かなかったから。
――……君は風流にかけることを言うねぇ。
――あら。政治的見地と言ってほしいかな。
言うと、気配が笑い、桜が風に舞う。風は強くなって桜は吹雪となり、彼女の視界を覆う。
視界が晴れれば、そこは春の庭を眺める和室だった。
萌黄の木の合間、咲く色は山桜か。
「……陸奥守は最近屋敷で大人しくしているらしいな」
それを眺める男が一人。
傍に誰かいるのだろうか。はい、と応えがひとつあった。
「太平は倦むか、それとも――」
穏やかなその景色に、時代が進んだのだと雫石は気づく。桃山は去り、江戸が来たのだ。そしてこの屋敷は、桃山の様相をのこしつつ、江戸の人を生かしている。
御嫡男が先日の酒乱の件でさすがに父上を叱られたとか、老いては子に従うということかもしれません――傍らの誰かが答えるように言う。
部屋は外に比べて薄暗く、男の表情は仔細にはわかりかねた。だが苦笑するような気配があった。
男が庭に面する広縁に足を動かした。場面が動いて、男の顔が影から脱出する。
ひらひらと山桜の花弁が舞い、男はそのひとつを掌に迎え入れた。
男の顔が上向いて、花弁を散らせた枝を探す。
その鼻筋には真一文字の傷があった。
「あやつは何もかも漏らさず太平に連れて来たか――妻も子も」
傍仕えのものが沈黙する気配がした。
「書も香も分け合ったが、歩んだ道は違うようだ」
サァと風が吹いて、桜をまわせ、緑を揺らした。
その景色を眺めて、ふと、雫石は言う。
――細川忠興。
あの傷は、そう。妹から受けた傷。助けたはずの妹が兄を恨んで刻んだもの。
――彼が、そうね。
――もっと猛将を想像していたかな。そう、これは歳を重ねた僕の主だ。
苛烈な人物と伝わるその男も、降り積もる年月に流され角をいくらか丸くしたのだろうか。目はいまだ鋭さを残すものの、宿す気配はすでに茶人や歌人――そんな雰囲気であった。
男が振り返る。
床の間には大小。
その視線に雫石は気づく。
――あなたを見ている。
気配が沈黙した。
――忠興は武具にも美意識を持ち込んだ。肥後拵は幕末まで続く産業になった……。
雫石はふと問う。
――あなた、歌を詠んだ。政宗の和歌を。忠興が作り出した拵えに、確か。
和歌にちなむものがあったような。
気配は深く、値踏みするようにさらに沈黙する。
――歌聖は三十六。これを三十六歌仙とする。
――手討ちにした家臣は三十六。これにちなみ刀の名は歌仙。
――刀工は……兼定に著名な之定。
もやがかかっていたような知識の底から、情報があふれてくる。
刀を見る男と目があったような気がした。
雫石は息を吸う。
――歌仙兼定。細川忠興の佩刀。それがあなたの名前。
――御名答。
景色が消え去り、対峙するのは袴姿の男。紫の髪に目をとられる。
そこで雫石は目を開き、体を起こした。転送装置に、寸分違わぬ姿が一つ。
「風流を愛する文系名刀さ、どうぞよろしく」
差し出された手を握りつつ、雫石は笑う。
「文系同士、仲良くしましょうね」
「鄙の歌人を敬愛しているようだね、期待しているよ」
その物言いは穏やかでありつつも、なんとなく主従が逆転したようでおかしい。
そこへ、コツ、と靴音がした。
振り返れば燭台切光忠であった。
「……鄙の歌人と縁のある者を連れているんだね」
「ええ。あともう一人。大倶利伽羅よ」
ふむ、と歌仙は言ってにっこり笑う。
「……君は朝鮮には渡っていないかな。けれど同じ長船の気配がするよ」
「僕は燭台切光忠。君が言うのはたぶん景秀のことだろうね」
「成程、祖の手になるのか、君は」
歌仙はうんうんと楽しそうに頷いた。
雫石は少しばかり彼の気難しさを感じ取り、そっと近侍に目をやれば近侍のほうも同じことを感じ取ったのか、視線がかちあった。

[初出]2016年5月11日