[初出]2016年5月11日
――おや? 懐かしい気配がするね。 景色はない。だが声がした。 ――鄙の歌人……その気配だ。 さっと視界が明るくなる。青い空、舞う桜。しかしそこは、三春ではなかった。 花の間に緑が茂り、桜の花は天へ天へと昇っていく。まるで春の色をした霞がひろがるよう。遠景に見える、あれは寺の屋根だろうか。 ――君かため よし野の山の まきの葉の ときはに花の 色やそはまし 柔らかな男の声で歌が詠まれ、雫石はここがどこか理解した。その歌は伊達政宗の歌であった。いつ、どこで詠まれたのか。雫石はよくそれを知っていた。 ――文禄3年2月27日。……ここは吉野山ね。旧暦を新暦に合わせれば4月……ちょうど桜の咲くころ。 ――太閤殿下、関白殿下、内大臣殿、中納言殿、その末席に鄙の歌人。 声が言うのは、吉野山の花見で詠まれた和歌のうち、特に優れているとされた五首の詠み手のことであろう。 雫石は笑う。 鄙の歌人……田舎の歌詠みとは政宗をさした言葉だ。田舎の出にしては教養のある……そう評したのは中納言殿、前田家のものか。しかし、土豪の子から小姓にとりたてられた身分と比べれば、伊達の家は鎌倉時代の奥州合戦にまでその功を遡ることができ、また左京大夫を任官し、陸奥国守護職、次いで奥州探題を補任された父祖のいる家系でもあった。田舎とは無教養を示さない。 ――ええ。並びで言うと和歌の実力で入ったのは鄙の歌人のみ、というところかしらね。太閤、関白は言わずもがな。内大臣の徳川家康ももちろんね。それから中納言の前田利家は五大老。この四人は入るべき人で、鄙の歌人は官位も政治的な実力も年齢も、なにもかも届かなかったから。 ――……君は風流にかけることを言うねぇ。 ――あら。政治的見地と言ってほしいかな。 言うと、気配が笑い、桜が風に舞う。風は強くなって桜は吹雪となり、彼女の視界を覆う。 視界が晴れれば、そこは春の庭を眺める和室だった。 萌黄の木の合間、咲く色は山桜か。 「……陸奥守は最近屋敷で大人しくしているらしいな」 それを眺める男が一人。 傍に誰かいるのだろうか。はい、と応えがひとつあった。 「太平は倦むか、それとも――」 穏やかなその景色に、時代が進んだのだと雫石は気づく。桃山は去り、江戸が来たのだ。そしてこの屋敷は、桃山の様相をのこしつつ、江戸の人を生かしている。 御嫡男が先日の酒乱の件でさすがに父上を叱られたとか、老いては子に従うということかもしれません――傍らの誰かが答えるように言う。 部屋は外に比べて薄暗く、男の表情は仔細にはわかりかねた。だが苦笑するような気配があった。 男が庭に面する広縁に足を動かした。場面が動いて、男の顔が影から脱出する。 ひらひらと山桜の花弁が舞い、男はそのひとつを掌に迎え入れた。 男の顔が上向いて、花弁を散らせた枝を探す。 その鼻筋には真一文字の傷があった。 「あやつは何もかも漏らさず太平に連れて来たか――妻も子も」 傍仕えのものが沈黙する気配がした。 「書も香も分け合ったが、歩んだ道は違うようだ」 サァと風が吹いて、桜をまわせ、緑を揺らした。 その景色を眺めて、ふと、雫石は言う。 ――細川忠興。 あの傷は、そう。妹から受けた傷。助けたはずの妹が兄を恨んで刻んだもの。 ――彼が、そうね。 ――もっと猛将を想像していたかな。そう、これは歳を重ねた僕の主だ。 苛烈な人物と伝わるその男も、降り積もる年月に流され角をいくらか丸くしたのだろうか。目はいまだ鋭さを残すものの、宿す気配はすでに茶人や歌人――そんな雰囲気であった。 男が振り返る。 床の間には大小。 その視線に雫石は気づく。 ――あなたを見ている。 気配が沈黙した。 ――忠興は武具にも美意識を持ち込んだ。肥後拵は幕末まで続く産業になった……。 雫石はふと問う。 ――あなた、歌を詠んだ。政宗の和歌を。忠興が作り出した拵えに、確か。 和歌にちなむものがあったような。 気配は深く、値踏みするようにさらに沈黙する。 ――歌聖は三十六。これを三十六歌仙とする。 ――手討ちにした家臣は三十六。これにちなみ刀の名は歌仙。 ――刀工は……兼定に著名な之定。 もやがかかっていたような知識の底から、情報があふれてくる。 刀を見る男と目があったような気がした。 雫石は息を吸う。 ――歌仙兼定。細川忠興の佩刀。それがあなたの名前。 ――御名答。 景色が消え去り、対峙するのは袴姿の男。紫の髪に目をとられる。 そこで雫石は目を開き、体を起こした。転送装置に、寸分違わぬ姿が一つ。 「風流を愛する文系名刀さ、どうぞよろしく」 差し出された手を握りつつ、雫石は笑う。 「文系同士、仲良くしましょうね」 「鄙の歌人を敬愛しているようだね、期待しているよ」 その物言いは穏やかでありつつも、なんとなく主従が逆転したようでおかしい。 そこへ、コツ、と靴音がした。 振り返れば燭台切光忠であった。 「……鄙の歌人と縁のある者を連れているんだね」 「ええ。あともう一人。大倶利伽羅よ」 ふむ、と歌仙は言ってにっこり笑う。 「……君は朝鮮には渡っていないかな。けれど同じ長船の気配がするよ」 「僕は燭台切光忠。君が言うのはたぶん景秀のことだろうね」 「成程、祖の手になるのか、君は」 歌仙はうんうんと楽しそうに頷いた。 雫石は少しばかり彼の気難しさを感じ取り、そっと近侍に目をやれば近侍のほうも同じことを感じ取ったのか、視線がかちあった。
[初出]2016年5月11日