「いたい、かも」
帰りのポッドで右手を見下ろせば、うっすらと赤い。
「主さま、大丈夫ですか?」
「ビンタしたの妹と喧嘩した小学校以来、だから加減わかんなかったかも」
「加減、しなくてよかったんじゃない?」
五虎退と蛍丸も両脇から手を覗き込んでくる。
ポッドは雫石と短刀と蛍丸が並び、その向かいに大人として顕現したものたちが座っていた。真ん中は燭台切で、近侍らしく主と向き合っている。
「あの人何なの?」
蛍丸が見上げつつ聞いてくる。
「南部健仁、うちの大学の助教。十年ぶりにストレートで博士号取ったひとよ」
「それって頭いいってこと?」
「そりゃあね。正直、私の博士号も南部さんに引きずられたことがあるし」
「どういうことです?」
「エースがいるとチームって強くなるでしょ。そのエースがうちの研究科では南部さん」
南部さんがドクターに上がってから修士論文も落とす子いなかったし、すごいのよ――と言えば背の低い男士たちは感心したような声を出した。
「性格は――難があるけど」
「加州は呆れているようだったね」
歌仙の言葉に雫石は首をかしげる。
「そうね――でも南部さん、ちょっと親分気質なところあるから、落ち着けば上手くいくんじゃないかしら。男同士だし」
「親分気質?」
「マージャンでボンボン医大生からお金巻き上げてたのは確かだけど、苦学生なんか見つけるとタダで勉強見てあげてたしね、おもに語学だけど」
それに、と雫石はやや明後日を見ながら言う。
「私も世話になったし」
「勉強で?」
久方ぶりに燭台切の声がした。雫石は手をもむ。
「――M1……修士一年の時に三年付き合ってた男に浮気されまして」
「え……」
意外な言葉に、場の男たちがあっけにとられる気配がした。
雫石はため息をついてからとぎれとぎれに言った。
「研究室で落ち込んでたら、飯食いに行くぞって、そこから夜中の23時まで話聞いてくれて、えーと計4時間くらい?」
「……」
「いや聞いてくれたって言うか終始ほぼ返答とかなかったし寝てたのかもしれないけど」
「……へぇ」
「……帰りはポッドまで呼んでくれてたし」
「成程。その借りがあって社会的に殺せないのか」
大倶利伽羅がさして興味なさげに言った。
「そういうこと――実際五回くらい社会的に殺せるはずなんだけど。あと、まあ、やっぱり時代違っても指摘が的確なの。参考文献一覧とか、謝辞の書き方とかも助けてもらったし」
「でも、お尻に、その、触るのは男子たるものいけないと思います……奥さんでもないのに。危なかったら今度は僕を連れて行ってください」
先ほど、秋田のように雫石をかばうことができなかったことに忸怩たるものがあるのか五虎退が真剣な顔で言った。雫石はその顔に嬉しくなる。
「ありがとう。でも、五虎退が飲み会についてきたら大変なことになっちゃうかも」
「え」
「うちの後輩の女の子、かわいい子が好きだから」
五虎退のそばかすの散る頬が淡く染まった。
そして、ねぇねぇオレは、と蛍丸が言い、秋田がその言葉にポカンと口をあける。雫石は笑い、二人ともかわいいわよ、と言うと、だったらオレも行きたいかもー、と蛍丸が悪戯っぽく笑った。
その様子に歌仙と燭台切は苦笑し、大倶利伽羅はため息をついた。
しばらくして、雫石はふわ、とあくびをした。
「……ちょっと眠いかも。……向こう向いてるから、お話とかしてても大丈夫だからね」
そう言うと、雫石は座席をくるりと返し、一人だけ対面式の座席から逃れた。
やがて、すうすうという寝息が聞こえ出して、燭台切は向かい合う小さな刀剣男士たちに言った。
「みんなも疲れてたら休んでいいよ」
「そうします」
と異口同音に言ったのは秋田と五虎退で、蛍丸はうんと頷く。みな、もぞもぞとシートで楽な姿勢を取ると、眠ってしまった。
「……光忠」
ひそやかな声を出したのは大倶利伽羅だった。
「お説教かな」
「それは、まあいい。……それよりもあの男」
「君も気づいたのか」
と歌仙が逆側から身を乗り出す。
「……あの張り手、おそらく効いてないぞ」
「殴られ慣れているか、武道の心得があるか、あるいはその両方か、と言ったところかねぇ」
殴られ慣れているとしたら、ロクでもない男だよ、斬り捨ててしまった方が良かったかもしれない、という歌仙に大倶利伽羅は「おい」と言った。
「斬り捨てるかどうかはともかく、それには気づいた。それに――」
と燭台切は手袋に包まれた右手を見下ろした。
――あの男、驚いていなかった。

「ねぇすごい」
と亘理はタブレット端末をひょいと津野と藤塚の前に差し出した。
そこにあるのは、山と谷を描く一本の曲線だった。
「なんです?」
藤塚が不思議そうに言うと、亘理がフフン、と楽しそうに笑った。
「南部くんの心拍数。ほぼ乱れてないの!」
「はい?」
「手首の端末のチェッカー、オンにしたままだったの。で、これね、燭台くんが刀突き付けてから雫石さんにぶたれるまで!」
よくよく見れば、曲線はドラマなどでよく見る心電図と同じもので、南部のものだと言うそれは教科書に出てくるような正常洞調律の形をしていた。
それが規則的に繰り返し、乱れはひどく少ない。あるとしたら、それは最後の方にある――雫石に身体的衝撃を加えられたところにわずかあるだけ。
「で、これが藤塚さんと津野くんと雫石さん」
南部の心拍の図が縮小し、その下に同じものが三つ展開される。
……いや同じではない。下の三つは乱れに乱れていた。
「藤塚さんポーカーフェイス上手いのね」
「雫石さんと同じタイプなだけですよ……というか僕らのまで取ってたんですね……」
藤塚はぐったりと言い、津野は南部の記録に触れた。
「……いやこれ普通に考えて、壊れてるんじゃないですか、南部の」
「壊れてない。というか南部くん、出陣中もこんな感じなのよ、落ち着いてる」
「ええー……それって昔で言うサイコパスってやつなんじゃあ」
「さあどうでしょう? 私はそちらの専門家じゃないし」
無責任な、と津野は口をあけた。
「でも公安の調査は突破したんでしょう? 公安だったら懸けマージャンとかも知ってたと思うんだけど、撥ねられなかったのね」
「あるいは最大多数の最大幸福を優先したか」
藤塚の言葉に津野は頭を掻いた。
「まー、サイコパスはともかくあいつの性格どっちかっていうと実際、難のほうに偏ってますが……」
「動揺しない、っていのうは審神者の総大将としての面としてはいいものなんじゃないかしら」
「今のところ刀剣男士たちもそれで評価しているようですしね」
「俺はちょっと薄気味悪いですよ、わが後輩ながら」
津野はひとつ首を振って、ため息をついた。

[初出]2016年5月11日