[初出]2017年1月30日
「ついたー」 降りたホームの向こうに駅舎がある。物珍しく辺りを見回す燭台切の隣で、雫石はひとつ伸びをした。そして彼女はホームが緩やかに下る先、線路を渡ってホームの向こうへ移動する。燭台切は下り坂の先で物珍しく足下の線路を眺めた後、大股にそこを越えて彼女についていった。ホームは二つの線路に対して一つだけだった。彼は駅舎に入る直前で振り返り、また珍しくそれを眺めた。 駅舎は平屋づくりの簡素なものだが、改札から入るといやに広く感じる待合室があった。売店もないからだろうか、と燭台切は辺りを見回した。待合椅子にのんびりと老婆が二人座って談笑している。人影はそれくらいだった。 「ただいま!」 と、先行する雫石が改札脇にある駅務員室へ声をかけると、中年の男が見ていた端末から不思議そうに顔を上げた。そして、彼女に気付くとあっという顔をし、 「おかえり! いやぁ我が町の才媛のご帰還だなや!」 と少しからかいを含んで言った。ははは、と雫石は苦笑する。知り合いか、と燭台切は二人のやり取りを見守った。 「もうバスもしばらくねぇけど、誰か迎え来んのか?」 「あー、その様子だとまだ来てないんだね」 「中には入ってきてねぇな」 そこで、駅員はふと燭台切に気付いたようだった。目をパチクリさせたあと、ふふふ、と笑った。「ついにか」と唇が動いた気がしたが、その音自体は燭台切の付喪神の耳にも拾えないほどだった。 「それじゃあ、表で待ってようかな」 「ん、ゆーっくりしてけよ!」 と駅員はひらひらと手を振った。 表には小さな駅前駐車場。意外なことに――あるいは企業が大都市に集中するこの時代にあってはまったく意外ではなく――小さな駐車場はほぼ満車であった。その向こうには民家や商店もあるようだったが――目に付くのは、風にそよぐ緑。遠くの青い山。 「空が、広い」 見上げた燭台切がポツリと言うと、雫石が小さく「トウキョウニソラガナイ」と言った。 燭台切は「アダタラは向こうだね」と南のほうを指さした。雫石が引いたのは、明治から昭和に生きた男が妻のことを詠ったものだ。雫石は香炉峰の雪めいた近侍の機転に気をよくして笑った。 その時だった。 「都子!」 と呼ばわる若い男の声。ぱっと二人がそちらをみれば、若い男が車から降りたところだった。今ついた様子ではなく、ずっとそこに停まっていた気配がある。 「竜太郎!」 雫石が呼ぶ声に男は手を挙げた。燭台切は目をすがめる。男の面差しが少しばかり傍らの女に似ている気がした。 「あ、れ」 少し小走りに近づいてきた男が不審そうに歩みを遅くした。視線は燭台切へ―― 「従弟の竜太郎」 その間に雫石は短く彼を近侍に紹介した。そして自分のキャリーバックをひいて彼に歩み寄る。燭台切はアタッシュケースと自分のトランクを持ち上げた。 「あれ、佐智子は?」 佐智子、というのは雫石の妹だという。そして雫石はその妹に迎えを頼んでいたのだ、と燭台切は事前に聞かされていた。 「さっちんならまだ東部道路。寝坊したんだと」 「えー。くまさんは?」 「くまさんが起こして起きるんだったらあいつの寝起きの悪さずいぶん前に改善されてるんじゃね」 「それもそうか」 「――くまさん?」 燭台切がそっと割り込めば、雫石は振り返って笑った。 「妹の婚約者。仙台で一緒に住んでるの」 「へえ」 「つーか、どちら様、都子」 やや不機嫌そうな声が雫石よりは高く、燭台切よりは低い位置から発せられた。 「ああ。一緒に来る人がいるって言ったでしょ。それがこちらの、庄子、光忠さん」 「……男じゃねーか」 「女って言ったっけ……?」 首を傾げる雫石と、どこか不機嫌な竜太郎に燭台切は「どうやら歓迎されていないのでは」と内心で冷や汗をかいた。 雫石はそれに頓着とせず、竜太郎の車に荷物を詰め込む。燭台切も声をかけられて、荷物をトランクに乗せた。 むすっとした竜太郎が運転席側に回った。 そして燭台切が助手席の後ろのドアを開け、雫石が運転席の後ろのドアに手をかけると 「助手席乗らねぇの」 と竜太郎の不機嫌そうな声がした。雫石はうーんと言う。 「あんたの運転、前だと怖いけど」 仕方ないね、と助手席に雫石が回り込む間に竜太郎は運転席に乗り込み、格納されていたハンドルを出していた。 燭台切は「おじゃまします」と言って雫石の後ろに乗り込む。竜太郎とバックミラー越しに目が合い、にこりとしてみせたが目をそらされた。 ――やっぱり、歓迎されてない。 と燭台切はめずらしくこの先を不安に思った。 そんな彼を乗せて車はしばらく人家と緑の間を行き、やがて前方に橋が見えた。 「ミヤコ、川だ!」 と燭台切は不安を忘れて窓にとりついた。振り返る雫石の声には笑いがある。 「そう、阿武隈川!」 とうとうと流れる川は大河というほどではない、だが大きくゆったりと、海を目指している。色の濃い波があちこちに立ち上がり、消えていく。 伊具の阿武隈川、東北で二番目に長い、伊達の戦に治世、そして遊びの記憶にもある川―― 窓にとりつくうちに川は後ろへと去る。 次には古い街並みが現れ――古い蔵造りの建物が見えてきた。ここが町の中心で、雫石の実家はもう少し先らしい。 これまた去る街並みを追って振り返り、また燭台切が顔を正面に戻せば振り返る雫石と目が合った。「ここが公と縁ある土地よ」と目が語っていた。 雫石は重々しい瓦葺きの平屋――といっても大きな家であった――にたどり着くと、荷物を玄関先において靴を脱ぐとまっすぐに奥に入っていった。 竜太郎は玄関入ってすぐの居間に座り込む。 燭台切は彼に目をやりつつ雫石に倣うことにした。 彼女は居間の三つ先の仏間にいた。熱心に仏壇に手を合わせている。燭台切はその右斜め後ろに控えながら、これまた主に倣い、仏壇に手を合わせた。手をおろした雫石が見上げる先に、一人の老女の写真があった。 祖母というには老いすぎている――と燭台切が思っていると 「あれ、おっぴさん」 と雫石が振り返りつつ言った。その顔がひどく優しい。 おっぴさん、とは曾祖父曾祖母を指す言葉だ。では写真の老女は雫石の曾祖母なのだろう。よく見れば、こちらを向く老いてなお聡明そうな目は彼女によく似ている気がした。 雫石は「よいしょ」と立ち上がると燭台切を居間に連れて行った。 それから出された座布団に腰掛けた燭台切に言う。 「あ、そうだ。私の家、ここじゃないの。敷地内の別棟。ここ、じいちゃんちなの」 「そうなの?」 「うん」 それから勝手知ったるなんとやらで、雫石はどこかへ行ってしまった。 居間には男が二人だけ。片膝を立てて座る竜太郎の間に妙な沈黙が落ちる。何か話した方がいいか――燭台切がそう思う間に、雫石がお茶を入れて戻ってきた。 三人は無言で茶を飲んだ。 しばらくして、田んぼでの午前の作業を終えたらしい家族親戚と、従業員――雫石の家は六次産業農家であった――が雫石たちのいる母屋に戻ってきたのだ。 一同、母屋の居間にいる見知らぬ見目のよい男にポカンとした顔を見せた後、帰省した娘と男を見比べ 「都子ちゃんが男を連れて帰ってきた!!」 と騒ぎ始めた。 「え、ちょっと」 騒ぐ男たちの中には雫石と歳の変わらなさそうなものがいて、彼は腕の端末を二人に向けてきた。雫石はそれを払いのける。 「なにしてんの!」 「ここいら一番の変人が男を連れてきたって知らなきゃ」 「なんで! 同僚!」 「どーりょーーー?!」 男はその言葉とともに端末からシャッター音がした。男はパッととびすさった。 「おれは家で嫁が昼飯用意してるから。これ見せてやる!」 「待って!」 追いすがろうとする雫石を巧みによけて男は行ってしまった。 「ああー」 「もうだめだ、広まるぞ。お前とあいつ、中学の同級生だもんなぁ」 と少しばかり歳のいった男たちが笑う。 「だから違うってば」 燭台切は苦笑する。 「文化庁で雫石さんにお世話になっております、庄子光忠と申します」 「まあまあまあ、ご丁寧に」 そう言って首筋までの日除けのある農作業用の帽子をとりつつ彼の前に座って頭を下げた女性は、ひどく雫石に似ていた。その横にも、これまた雫石に似た優しそうな男が座る。 「都子の母です。こちらがこの子の父で、私の夫」 そして女性は燭台切の予想通りのことを口にした。父だという男はにこにこするばかり。 二人には歓迎の色があり、「歓迎されていない」という印象は杞憂だったのだ、と燭台切は内心で息をついた。 そこへ、声が響いた。低く、重く、よく通る男の声。 「おい、どかんか」 みれば、どっしりとした雰囲気をまとう老人がそこにいた。従業員たちが道をあけ、老人はそこを当たり前のように通り、母屋へあがった。雫石の父がさっと脇へよけた。日に焼けて皺だらけの顔を見れば、彼の面差しは雫石とその母によく似ていた。 都子の祖父だろう、と燭台切が見当をつけるとふいにその目が彼を捕らえた。 奥まった目はそれでも鋭く、値踏みするように燭台切を見回した。 「細っこいなや」 男はそれだけ言って、上座にどっかりと座り込んだ。いや言うほど細くは、と言い掛けて燭台切は老人の言葉が「農作業に不適」という意味だと思いいたった。そして口を閉じれば、無視される気配。 竜太郎も祖父と同じ空気をまとっていた。 ――訂正。 と燭台切は思う。 ――杞憂ではなかったけど、一部には歓迎されていない。 はやし立てる従業員たちを尻目に、雫石の父母はやや青ざめていた。 「じいちゃん? 気にしなくていいよ」 雫石の祖父は「針生アグリ」という会社の会長である。母はその長子長女で雫石という男に嫁いだが、もともと男は会社の従業員であったので父はそのまま働き母もそのまま家業を手伝っているという。社長は竜太郎の父で雫石の叔父なのだが、実権はやはり会長が握っているという。 その会長に気に入られなかったようだ、と言うと雫石は気にしなくていいと受け合ったのだ。 「でも」 「もともとじいちゃん、気に入らないのよ。私のこと。東北大の農学部行け、っていう人だったからね」 雫石はどこか他人事のように言う。ここは別棟――母屋の敷地内にある雫石家の居間だった。 「……落ちたの?」 「行くなら文学部。だけど受けさせてもらえなかったの」 「それで東京に」 「うん、農学部の受験には成績的には問題なかったんだけど、私は歴史がやりたかったから。ちょうど東北大退官した東北中世史の先生――今の私の師匠だけど――が退官して、滑り止めの大学――つまり、今の私の母校ね――に移ることがわかったから、それをおいかけたの」 「……よく認めてもらえたね」 「もーお母さんとお父さんには頭あがらないよ――学費は自分でまかなうこと、が条件。どうせなら仕送りも少なくてすむようにしてやるって、だから奨学金と特待生とって、がんばった。あとは学内でバイトしたり」 成程、と燭台切は納得した。女の子だから仕送りもなしでやれ、って言えなかったところがじいちゃんの甘さだよねぇ、と雫石は苦笑した。 「私は、じいちゃんに最低限の迷惑しかかけてない。って言っても、仕送りしてくれたのは母と父なんだし、もともとじいちゃんが口を挟むのが変なんだよね。じいちゃんにしてみれば母と父の給料出してやってるの、俺だ、って思ってるのかもしれないけど」 「――」 「重く考えないで。もう過ぎたことなんだし」 奨学金だって返済不要のに入れたしね、と笑う雫石に燭台切はなにも言うことができなかった。 女人の権利がいくらか広がったとは言え、イエの中の関係においてはやはり――家父長の権力が未だ健在あるようだ。特に、農家、田舎という環境においては、そうなのかもしれない。 「どうしたの深刻そうな顔して。あ、客間案内するね。こっち」 雫石がそう言って、リビングのドアを開けたときだった。 「うわっ」 向こうからも、ドアを開けようとした者がいたのだ。開いたドアでこちらとあちらがはち合わせる。 向こう側にいたのは明るい髪色の女性だった。背は雫石とさほど変わらない、しかし彼女よりは垢ぬけておしゃれな女性がそこにいた。 「お姉ちゃん!」 その面差しがまたミヤコに似ている、と燭台切が思ったのと同時に彼女と彼の主との関係が判明した。 「佐智子」 「元気だったー?! ハカセなんだよね! おめでとう!」 言って女は雫石に抱きついた。姉はくすぐったそうに笑ってそれを受け止める。 「あんたも元気そうね」 「そりゃあね」 彼女は雫石――都子の妹の佐智子だった。 二人の面差しは似ているが、佐智子のほうが幾分華やかな印象がある。 しっかりとしたメイクのせいだろうか。口紅は発色がよく、目の回りも丁寧に美を仕上げている。 比べると、都子のほうはやはり地味であった。華やかさは欠けるがそれでも妹に都子が見劣りがしないことに、やはり僕の主は美人らしいと燭台切は少しばかり自慢に思った。 そこへ、どす、という少し重い足音が響いた。姉妹が玄関へ続く廊下へ目をやる。 そこには、燭台切とほぼ変わらない身長――しかし横幅は倍以上ありそうな髭を蓄えた大男がいた。燭台切は本能的に雫石の傍らへ控えた。それに気づいた雫石が苦笑する。 「紹介するね、妹の佐智子と、その婚約者の熊谷勇人さん」 熊谷と呼ばれた男はにっこりと燭台切に笑いかけた。それは人なつっこい笑みであった。 「はじめまして。みんなにはくまさんと呼ばれていますので、お気軽に」 「こちらこそ。庄子光忠と申します。都子さんの同僚で、こちらにおじゃまさせていただいています」 「同僚」 声を上げたのは佐智子だった。 「えー同僚なのーーー」 幾分、がっかりした声。 「田植え、見たことないの、この人。だから連れてきたの」 「田植えー?!」 佐智子はあきれたような声を出した。 「お姉ちゃん、田植え見るのは別にいいけど、彼氏はー?!」 どうやら妹は、姉と性格がだいぶ違うらしいと燭台切は苦笑した。
[初出]2017年1月30日