[初出]2017年1月30日
駐車場で彼女が選んだのはコンパクトなポッド兼用車ではなく、四輪駆動の背の高い車だった。 燭台切が長い足をステップにかけ、ひょいと助手席に乗り込むと運転席にはすでに彼女がいた。 格納式ではないハンドルに驚いているうちに、彼女はエンジンをスタートさせた。ナビは沈黙している。ああ、ここは彼女のふるさとなのだ――と思う間に、彼女はアクセルを踏んでゆっくりと車を始動させた。 車がまた町を抜ける。 蔵づくりの観光施設のあるメインストリートを行くのではなく、途中道を曲がり、都会ばかりをみてきた燭台切には珍しい単調な家と店と工場の連なりを抜ける。 向かう先に――燭台切の目を引くこんもりとした山が見えた。 ――気配がする。 その山の中から。ひどく懐かしく、それでいて知らないような。 燭台切はわずか身を乗り出し、ダッシュボードに手を着いた。 危ないよ、と主が言う。燭台切はその声になんとか体を背もたれにつけたが、目をその山から離すことができなかった。 予想通りその山へ近づいた車は山沿いに回り込む。すると民家の脇に急な坂道があった。 『丸山城址』 と見えた看板に目をとられていると、ぐいと車体が傾いて、燭台切は思わずドアの上の手すりに捕まった。隣をみれば雫石は普段と変わりない顔をしていた。道と言うには急峻すぎる傾き。その先に民家のようなモノがまたあり、『三の丸』と小さな立て看板があった。それを横目にカーブを曲がると、また坂道の角度が上がった。 その先、少し開けているあたりで雫石が路肩に車を寄せた。 降りてみれば、そこは路肩というより野原で、数歩行けば崖というところだった。 ぞっとしないな、と思っていれば雫石がすでに『この先車進入禁止』とある看板の前にいた。 「こっちよ」 そこに歩み寄りつつ、燭台切が言う。 「……丸山城って?」 「地元ではずっとそう呼ばれてるの。ここが丸森城」 言って、彼女は坂の先を見やる。 「政宗公の曾祖父、植宗公の隠居地よ」 その言葉で、燭台切はこの山から目を離せなかった理由と、山から感じる懐かしくも知らない気配の意味を悟った。 彼女はさらにさくさくと山を登る。『二の丸跡』と書いてある場所は畑になっていて燭台切は目を丸くした。 その一段上の『本丸跡』は野原であった。 「兵どもが夢の跡……だね」 「まだ夏草って感じじゃないけど」 足をなでる草花はやわらかく、まだ春の優しさを感じさせるものであった。かつて栄華のはかなさと時の流れの残酷さを詠んだ俳人は、もちろんここを詠んだわけではない――だが、思わず燭台切はそれを引いた。 雫石はそれを軽く流してしまうと、燦々と輝く太陽の下あたりを見回している燭台切をおいてさらに奥に進み 「こっちよ」 と言った。 本丸跡の脇を通り、奥へ進む。そちらは森へ――あるいは山へ――続いているようだった。彼女は何の躊躇もなくそちらへすすみ、露出した石が並ぶ場所をかろがろと渡っていった。燭台切の体を支える大きな足にはいささかその並ぶ石は小さい――では石から足をはずせばいいかというとそうはいかない。ロープが張ってあるその石の道は、両端が落ち窪んでいるのだ。左手は崖、右手は小さなクレバスのような谷だった。 小さな峰を用心しつつ数歩で渡りきれば、そこは城の跡地とは真逆の森の暗さが支配する場所であった。夏になっても冷涼なままの場所――そんな気配だ。 奥にある社はなんだろう――鳥居も拝殿のない、本殿がぽつんとある、それ。 「ねえこっち」 だが雫石はそちらではなく、少し離れたところから彼を呼んだ。大きな木下。 そこへ歩み寄れば、また知るような、知らないような気配。 彼女が数歩進む先――そこに大きな板碑があった。台座も併せて、2メートルは越えようかというものであった。 そこへ手を合わせる雫石を横目に、燭台切は板碑の中央に大きく彫られた文字を読んだ。 『従四位下行左京大夫藤原朝臣稙宗之墓』 その文字を読みとり、燭台切は思わず数歩後ろへ下がった。――まるで主君に対して礼をとるように。 「燭台切」 その動きを察した雫石も傍らに下がる。それから戸惑う彼の両手をとって祈りの形にすると、彼の傍らで幼子に仏への礼拝(らいはい)を教えるようにまた目を瞑った。 燭台切は頭を垂れて、目を閉じる。 藤原稙宗――藤原は氏、稙宗は名。ここにない苗字は伊達である。 伊達稙宗――子に晴宗、孫に輝宗、そして、曾孫に政宗。 伊達氏が奥州の覇者となる足がかりを作った男――奥州初の陸奥守守護職、分国法のひとつとして知られる「塵芥集」の制定者。晩年は息子との争いによって隠居を余儀なくされたが、彼の活動は確実に伊達氏の歴史の中で重要なものであった。 ここはその稙宗の、隠居地にして死没地なのだ。やがて政宗を生み出すことになる、伊達氏が南奥州覇者となる基礎を築いた人。 燭台切は改めてこの山に満ちる空気を思い、それを吸い込んだ。 「……大丈夫?」 「……うん。でも驚いた。もっと恐ろしい方だと思っていたから、ここまで近づけるなんて」 満ちる空気はどこか懐かしくはあれど、重さを感じることはない。 それが意外であり――同時にどこか落胆した自分がいることに燭台切は気づいた。 稙宗公は恐ろしい方だった――そう家中のものたちが語るのを彼は静かに聞いていたのだ。けれど彼が眠るという地は暗くひんやりとしていても穏やかで、目が慣れてしまえば恐ろしいところがあまりなかった。 その燭台切の物思いに気づいたのか雫石が苦笑しつつ首を傾げた。 「菩提寺は別だし、たしか本物のお墓――っていうのも変だけど、そういうものは、政宗公が仙台に移したんじゃなかったかしら。だから御魂か御霊もそちらにいらっしゃるのよ、きっと」 「……なるほど」 燭台切はそう言って、彼女に笑みを返す。 ――あるいは、もうこの世に満足なされてここにはいないのかもしれないけど。 とは二人は胸の中だけで同じくつぶやき、墓碑を静かに見上げた。 来た道を戻り、車に乗り込み、今度は急な坂を下ることになった。燭台切はまた頭上の手すりをぐっと握り込んでしまった。道が平らになったところで手を離すと、手のひらはうっすら白くなっていた。 少し行くと民家が少なくなる。 左手、やがて正面にには阿武隈川――大きな橋も見えた。雫石はそれを再び左手に来るように車を走らせた。 「そうだ」 と彼女は前を見たまま言う。 「燭台切、膝とか腰とか大丈夫?」 「……おじいさんには細いって言われたけど、そんなにヤワな鍛え方はしてないよ」 思わず顎をあげるようにして言えば、雫石が笑った。 「じゃあ、寄り道しましょ」 車が再び民家の密集地――いや集落へと左折していく。 家の密度は観光地をかねる町の中心よりも高そうで、燭台切は車窓を見渡した。また車が左折する――ひどく細い道に入った。少し行って、また折れる。角の家の壁か、それは燭台切には懐かしい白壁で彼は思わず後ろへ去るそれを肩ごとぐいと動かして見送ってしまった。 気を取られているうちに、また車が後ろへ傾いた。さきほどより深く。前に向き直れば、また山である。 雫石は『駐車場』とある空き地に道を逸れると、そこへ車を止めた。 竹林に近いそこへドアを開けて降りると、 「はい」 と彼女がペットボトルを渡してきた。20世紀に発明されたそれは、形状の便利さから水筒を打ち負かしたままなのだ。よく見れば、首のあたりにベルトに下げられるようにした金具が着いていた。 どうしようか、と思ううちに雫石は同じモノを腰から下げ、丸森城では車においたままにした小さなリュックを背負った。 「金山城よ、行きましょう」 返事を待たずに進んだ彼女の行く先を見れば 『本丸まで13分』 と看板があり、燭台切は「楽勝だな」と呟いて彼女の後を追った。 なかなかの急勾配を上り――道の舗装がなくなり、ついにはむき出しの踏み固められた土すらなくなったのは、いくつかの蔵跡をすぎて埋み門跡を抜けたあたりだった。 「……」 先を行く雫石はにこにこしながら彼を待っている。 埋み門のあたりでごつごつした石を踏んで進んだころから、彼は 「これは山城だ、しかも――本格的な」 ということに気づいた。そして自分が主の腰に下がるばかりの刀ではなく、顕現し肉体を持った男になっていたという事実にもうすうす気づきはじめていた。 切り株の横を抜け、登り登り――雫石は軽々と前を行く。 馬鹿な、と胸の中で呟く。 地の利は確かに彼女にあるだろう。きっとこの先の道を知っているのだ。だから速いのだ、彼女は。 しかし、彼女ほどのスピードが出せない。おかしい、と気づいたとき、足がだんだんと重くなっているのに気づいた。 ――田植えの疲れが。 雫石の祖父が言った「細っこい」とは、まさか―― そう思って先を見れば、鳥居があった。彼の主はそこで彼を待っていた。 たどり着けば、彼女は鳥居の中へ入り、小さな堂へ手を合わせた。 どうもこれは不動尊であるらしい。 燭台切は深々と頭を下げてから鳥居の内部へ入り込んだ。由来書きを見上げれば、雫石が言った。 「ちょっと休みましょう、お水飲んだ方がいいと思う」 「大丈夫だよ」 と言えば彼女は目をすがめて彼を疑わしそうにみたあと、今入ったばかりの鳥居の先を示した。 『出丸跡』 と小さな看板が見えるそこははるか上方で――そこへ続く道はやわらかな草に覆われる、これまでよりさらに急勾配な山道だった。いや、道は正確には草に埋もれている。 その急勾配を瞬きしながら見ていれば 「たぶん、いつものあなたならなんでもないと思うんだけど、田植えで下半身だいぶ乳酸溜まってそうだし。前から思ってたけど、あなたのウェイトって上半身なのね。はい、チョコレート」 燭台切は渡されたひとかけのチョコレートを口に放り込みつつ、雫石の祖父が言った「細っこい」の意味をかみしめた。 ――帰ったら、下半身を鍛えなくては。 そう思いながら。 「ほら、あれ、石垣!」 あそこからしばらくが最大の難所であったらしい。登り切ればなんとか勾配はゆるくなり、やがて森と山の境目のような道が続いた。 やはり元気に前を行く雫石に、基礎体力は勝っているはずなのに、と燭台切は恨めしく思う。負荷に耐えられる体の部位が違うのだと言い聞かせて、彼女が立ち止まる場所に追いつけば、少し先に小規模だが見事な石垣があった。 「野面積みじゃない……かな、打ち込み接ぎ、かな」 水を一口煽ってから言えば雫石は「全部がすべて成形されているわけじゃないし、たぶんね」と曖昧に、だが楽しそうに応えた。 「幕末まで使用されていた城――要害だから、保存状態はいいの」 「なるほど」 と言って燭台切はまた一口水を飲む。雫石はそんな燭台切をそわそわと見上げている。まるで秘密を披露する直前の少女のようなその様子に燭台切は笑ってしまう。 「なに、なんか面白かった?」 「いや、君、かわいいな、と思って」 くつくつ笑えば、年齢的にもうそんなことを言われない歳になっていたのか、雫石がポンと赤くなった。 「僕を連れてきたいところがあるんだね、かわいい人」 ――自分の主が、こんなかわいげを持っているとは思わなかった。 と、胸の中で呟けば、雫石はさっと彼に背を向けて、石垣の横合いにある坂道に行ってしまった。そしてその途中で 「こっち!」 と少し怒ったように言った。燭台切はますます笑ってしまった。 登ればそこは本丸跡――山城登山の終着点だった。 緑に覆われているため、正確な広さの体感がわかない。でもそこは人が暮らした平地だったのだ。碑がいくつか見え、それが荒城のかつてを偲んでいる。 「ねぇこっち」 と雫石が手招く声に怒りの色はもうない。照れ隠しであったのだろうと思う。 彼女が導く開けた場所に行けば、そこは本丸の敷地の端で――見事な景色が広がる場所であった。麓の、先ほど車で抜けてきた集落、広がる若い田、青い山々に、清純な雲が流れる空。 燭台切は大きく息を吐き、その景色を眺めた。 ここは、高い、高い場所なのだ。 「ね、ね、ここ、城と町の構造がよくわかるのよ」 遠景を眺め感嘆しているところへ、少女のような弾んだ声が響く。そっと視線をおろせば、にっこりと見上げた女と目が合う。 女は、遠くの景色ではなく、足元の山体を示した。 目の前、いや足下に、さきほどの急勾配の先にあった出丸跡があった。その先に、あの集落。出丸は城を補佐する、突出部。物見があそこに詰めたのだろう。 「……ここは戦用の城なんだね」 懐かしい感覚がした。燭台切たち、刀の本体が必要とされた時代の。 荒れ果てた城はむしろその感覚を強くする。 「城の下の集落は侍町の名残だね?」 燭台切が言えば、我が意を得たりと彼女はまた笑ってうなづいた。 太平の世が訪れると、戦の要というより政の中心となった城の周りには、町が形成された。それが武家屋敷であり、侍町だ。この城は出丸や敵の意気をくじく戦国の様相はそのままに、泰平の町をその麓に抱えている。 この城は、乱世と泰平の世の二つをよくとどめているのだ。 やがて城は放棄されたが、シンボルとして残り、町は小さくも続いている――燭台切はその流れを見下ろす景色に重ねた。 ――これが、歴史、か。 と普段目に見えぬままに死守しているモノを思いながら。 そんな燭台切を雫石はひどく優しい目で眺めていた。
[初出]2017年1月30日