下りは燭台切が前を行った。主に転がるような速度で駆け下りられて、そのまま本当に転がられては目も当てられないと思ったからだ。
慎重に下る男がもどかしいのか、女の手が数度男の背に触れた。
駐車場にたどり着くと、二人は顔を見合わせ、意味もなく笑い出してしまった。
「明日、きっと筋肉痛よ?」
「そこまでヤワじゃないといいなぁ」
と言い合った後、二人は無言になり肌や髪を撫でる風を楽しみつつ、しばしボンネットに背を預けて休んだ。
太陽は西への行軍をやめない。
「行こっか」
「そうだね」
二人は車に乗り込み、雫石はエンジンを始動させた。
来た道を少し戻り、今度はさらに東へ。
やがてたどり着いたのは、寺だった。
雫石はその駐車場の片隅に車を止める。
「……いいの?」
「うん、大丈夫」
彼女はエンジンを止めると颯爽と車を降りた。燭台切も従う。
寺の脇を抜けて、墓所に入る。斜面に作られた通路の間を雫石はまたしても登っていく。こんどは人の登りやすいようになっており、全く苦ではなかった。
登り切ると、舗装された先に――櫓があった。
雫石は迷うことなくそこを目指す。たどり着けばトントントンと軽い調子で櫓を登っていく。燭台切はそんな彼女の姿をしばし見上げた後、階段を上った。
登った先、見えたのは先ほどとも異なる、田んぼの続く平地。
「この櫓、平成のころに再建されたものなの」
「へぇ……」
燭台切は目の前の渡してある木に手をおいた。
それをみて、彼女が不意に外へ身を乗り出した。顔は正面、平地へ向ける。
「伊達が来たぞー!!! 狼煙をあげろーーーーーーーーーー!!」
一つ息を吸うと、彼女は大音声で一息にそう言った。
燭台切は驚いて彼女を見やる。
彼女は身を櫓の中に戻すと、悪戯っぽく彼を見上げた。
「ここ、相馬方の櫓なの」
「伊達じゃないの?!」
「うん」
と彼女は笑う。
「政宗の初陣は、この伊具。事の発端は、天文の乱で息子晴宗に破れて隠居した曾祖父の稙宗のこの隠居地を巡って、彼の死後、娘婿である相馬氏と伊達氏が対立しはじめたのが発端――」
「対立した息子、政宗公のおじい様の晴宗公にかわるように、稙宗公の世話をしたのが相馬――なんだよね」
「そう。世話したんだからうちのもの、いや実の息子だからこっちのもの、……って、争いの原因はいつの時代も変わらないよねぇ。たちが悪いのは、それが土地の帰属を巡ってってとこだよね」
「君にかかると戦争もタチが悪いで済むねぇ」
苦笑しつつ言えば、彼女も苦笑した。
「そして結果として、伊具は伊達のモノに。……ここは鉄がとれるから、先祖伝来の土地という大儀のほかに、そういう側面もあるでしょうね」
「鉄」
「そう。……あなたたちのような刀を作ったり、鉄砲を作ったり。戦道具だけじゃないわね、鍬に鍬はちょっと前まで前線で現役だったし」
「僕が言うのもなんだけど、君のいうちょっと前って普通の人より長い感覚だよね」
それは歴史家独特の感覚なのだろうか。約600年前を昨年のことのように語り、一世紀前を昨日のように語る。鍬や鍬が前線だったのは、機械が普及する以前――この国では、1960年代か1970年代以前だろうか――のことである。2205年の今において、世紀をまたぐそのポイントは一般人にはふつう「ちょっと前」では済まない。
その付喪神の指摘に、歴史家のひよこは笑った。付喪神こそ何百年も時を超えているくせに、というところだろうか。
それからふと大地をみて、彼女はまじめな顔で言った。
「そういう資源はいまでも重要」
「……」
歴史修正主義者とのものとは異なる、古来から続く土地・資源を巡るある意味原始的な戦いはこの国の外では武力でもって続いている地域がある。武力でなくても札束での殴り合いや株価の急上昇・急降下をもって未だに人はその奪い合いを続けていると言えるかもしれないし、その戦いならばこの国も参戦している。
雫石は手すりに両腕を寝かせると、そこへ顎をおいた。優しい風が二人を慰撫する。
光が赤みを帯びてきている。夕暮れが近い。
雫石がすっと背を伸ばした。そして、妙に芝居がかった仕草で平野を指さす。
「馬がくる。斥候かしら。ぬかるみを避けて、ほら!」
燭台切はそちらを見やった。そこには水をたたえる田があるだけで、馬はもちろんいない。当惑していると、小さくなった声が聞こえた。
「なんて、ね。都子は妄想好きの変なやつ。政宗がどう戦ったなんてわからないのに、って」
寂しげな声は、かつて彼女に投げつけられた言葉に違いない。
「ここは私の故郷――でもちょっとフクザツかな。じいちゃんもだし。友達だって、ほらまた都子が訳わかんないこと言い始めた――って、苦笑。聞いてくれるだけありがたかったんだって今では思えるけどね」
燭台切はそっと彼女に寄り添う。
ここは歴史好きの彼女の原点で、同時に人としての苦しみの場所だったのだと悟る。
ほんとうに楽しくなったのは大学に入ってからかな、と言った彼女を燭台切は背中から抱き込むようにした。
「な、なに?」
「ん? ……手を貸して」
燭台切は両の掌を手すりの上へ広げて見せた。
雫石は戸惑うように腕の中から振り返ってくる。安心させるように首を傾げれば、雫石は広げられた掌へ目をやり――恐る恐ると言った感じで手を重ねてきた。
――なんて小さい。
すっぽりと収まる手は小さく、細く、薄い。燭台切は痛めつけないように気をつけながらそっとそれを握り込んだ。
「オウマガドキにはまだ早いけど――」
そう言って彼女の背に胸を付けるようにした。彼女の身じろぎをその髪に頬を寄せて押さえ込む。
「ミて」
そう言うと、あたりに一瞬霧が立ちこめ――次に二人の視界が開けると、規則正しく長方形に広がっていた現代的な田は消え、小さくいびつな形の田と畑が目の前に展開していた。しかも平原いっぱいに広がるのではなく、ぽつぽつと点在するのみであとは緑の野が広がるばかり。それは近代化以前によく見られた光景だ。人が人の手でしか大地を耕せなかった頃の景色。
胸の中の女が息をのんだ。
「僕は公の刀だ。初陣はご一緒しなかったけど、君に見えるものは、見えるよ」
点在するこんもりとした森のいくつかから、狼煙が上がった。
そして、ごく近くから濃い煙が流れてくる。
「さあ応戦だ!」
彼のその声に呼応するように、平地のぬかるみを抜けて騎馬が――旗持ちをはじめ兵を4、5人従えてこちらへ向かってくる。一騎だけではない。見える限りの地平に、何十も。
そして足下から、野太い声を束ねた怒号が上がった。
見下ろせば、大きな門が勢いよく開く。斜面にはいくつも敵の突撃を防ぐ杭が植わっていた。
そして門の先の斜面を駆け下りていく、槍や弓を持った兵たち――防衛に行くのだ。この櫓――いや、城の。怒号は彼らのものであった。
やがて彼ら――伊達の兵と相馬の兵は、定めた合戦の地で衝突する……
その直前、その光景が消えた。走る兵も、馬の嘶きも時空の向こうに。
目を数度瞬くと、そこにはふたたび、穏やかで直線的な現代的な田んぼの景色。
燭台切はぐったりと雫石にもたれ掛かった。
「ごめん、所詮付喪神だから大地の記憶は呼び起こせないんだ。でも僕の知ってることと、君のイメージで、再現してみたんだ、合戦を。イメージ映像、ってやつかな」
「あなたの仕業だったのね……私のために?」
「僕のためでもあるよ。正確じゃないけど、公の初陣を見たかったし――それに、君の見ているモノを見たかった」
繋いだ手を放せば、腕の中で女が身をよじり解放したばかりの手で頬に触れてきた。
「……ありがとう」
少しばかり潤んだ瞳はどんな意味だろう。喜んでもらえているならいいけど、と燭台切は思い切ってこつんとその額に自分の額をぶつけてみた。
不快な思念はそこからは感じられず、正確な再現でもなかったというのに、彼女からは深い感謝の念が伝わってきて、彼はほっと胸をなで下ろした。


無言で来た道を戻り、墓所を抜け、寺の駐車場にたどりついたとき、声がした。
「妙な叫び声がしたとおもったら、都子じゃねーか」
すぐそこの本堂から顔を出した者が一人。
つるりとした頭と作務衣で僧侶と言うことがわかる。若い男で、文字通りの坊主頭だというのに顔は整っている。
とんとんとん、階を降りてくる彼に雫石は苦笑して歩み寄る。
「駐車場、借りちゃった、副住職さん」
「かまわないけどよ」
階段の先にあったサンダルをひっかけると、副住職、と呼ばれた男は雫石の前に立った。彼が近くに来て人間の二人は年の頃が同じだ、と燭台切は気づいた。
「おまえ、変わらないなー。変わらなさすぎてめまいがするわ」
「失礼な。リョウは得度して何年だっけ?」
「大学卒業と同時だから、5年だよ」
「もう慣れた?」
「慣れるもなにも、最初から身についてたもんはあったしなぁ。まー親父の長説教だけはいつまでたっても慣れねぇや」
それから、そうだ、と若い僧侶は笑った。
「博士号、おめでとさん。これからは先生って呼んだ方がいいのか?」
雫石も笑った。
「ありがとう。非常勤もらってるから先生は先生だけど、そんな大したものじゃないよ。……ていうかよく知ってるね」
「お前のじいちゃんから聞いたよ。仏頂面は装ってたけど、町内の集まりで言ってたから、本音では嬉しかったんだろうよ」
「……うーん」
「トンぺーの文学部受験許してもらえなかったの、まだダメか?」
「そういうわけじゃないんだけど」
「わだかまりってやつか。……お前はなにくその精神でじいちゃんの予想を超えたんだし、あとはお互いの歩み寄りだろうなぁ。いつか許してやれよ?」
「……なんか話がお坊さんくさい」
「坊主だからな」
その言葉に二人は笑う。――と、僧侶が燭台切の存在に気づいた。
彼は燭台切を見つけて、一瞬驚愕の表情を浮かべた。
「あ、ごめん。この人、同級生なの」
と雫石はふたりを紹介した。燭台切は相変わらず、同僚として。
僧侶の一瞬の驚愕の色は柔らかな笑みに消えていた。
「あれ」
その間で、声が発せられた。腰のあたりを見ている雫石に二人は首を傾げる。
「ボトル、櫓に落としてきちゃったかな。ちょっと見てくる」
言うなり彼女は小走りで行ってしまった。
残された男二人の間に、珍妙な沈黙。
「同僚、ですか」
「一応、まあ」
「一応」
若い男が複雑そうな声を出して、それからため息をついた。
「都子にいろいろ連れ回されました?」
「ええ、丸森城に金山城、それに、その櫓です」
と燭台切は高台を指さした。僧侶も見上げた。二人の視線の先に、ひたすらに櫓を目指す雫石が入り込んだ。それから彼はぽつりと、櫓の方をを見上げたまま言った。
「……見えました?」
「え?」
「都子、伊達がどうだの相馬がどうだのって言ってたでしょう。……上がる狼煙に騎馬の軍団、迎え撃つのは槍や歩兵……」
男が述べるのは、先ほど燭台切が雫石のイマジネーションを可視化したものと合致した。
「ええ」
と一つ答えると、若い男はそっか、と言った。
「俺には見えないなぁ……あの頃も、今も」
やがて雫石がほとんど空のボトルを持って戻ってきた。彼女はまた同級生の僧侶と少し会話すると、じゃあねと言った。男が手を振る。車に乗り込むと、バックミラー越しに若い男がまだいるのがわかった。カチカチと雫石がハザードを付けると、男は手を一つ振り、くるりと背を向けて本堂へ戻っていった。
「……仲のいい友達だったのかな」
と肩越しに直接彼を見て燭台切が言えば、前を向いたまま雫石がうーん、と言った。
「昔好きだった人、かな」
燭台切はゆっくりと首を回し、彼女をみた。彼女は彼を見ないまま、苦笑していた。

[初出]2017年1月30日